序 章

第一節 時間論

 時間を論じる思想は古来より種々あり、循環的時間を説く古代輪廻思想・ニーチェの永劫回帰説や時代的に劣化していく仏教の末法思想、それに対して現代を制している進歩的時間論等々。そんな中で、我々近代人は、古来より次々と進歩発展し、そして未来に向かって進歩し続けていく時間を考えている。しかもこの近代を構成する要素というのは、金融と時間という二つに絞ることができるのではないかと思う。それは人間がいかに金融と時間に支配され、あるいはその二つをいかに利用できるかという事に専念していることからもいえる事であろう。つまり経済発展が世界の唯一の関心事であり、そのためにはより短時間で事を進めるかがまた課題になっている事からも察することができよう。
 (ちまたでは「からだが資本だ」などと言う言葉があるように、人間は資本としての人間と考えられているところに近代的感覚がある。近代的思想構造として、時間・空間・資本の三要素をもって構成されていると考えるが、この資本論あるいは経済論については今は黙しておく。なぜなら、資本論あるいは経済論等は、近代社会において幸福論と密接な関係があると考えれば、これらを背景とする幸福観とこれから述べていく信仰上の幸福観とは意を異にするからである。これについては、後に〝楽〟の概念を考えるところで触れてみたい。)
 この近代化を時間的に言えば、いかに時間を短縮するか、という文化でもある。したがって近代における時間の概念は、〝時間の短縮〟あるいは〝処理能力の早さ〟を競い合うのが近代であるが、物事を生産するにしても、時間を過去・現在・未来という流れに乗せていかに短時間で完成させるか、という時間を考えているなら、それは不完全のまま作り上げることになる。物事は現在に望む物は、過去から未来を想定し現在に制作に取りかかるという行程をたどるべきであろう。過去に現れた結果を解析しそこから未来を想像していく方が正当な思考である。近代なる我々を語るときは、明確な時間論をはずしては語れないのである。
 さて、時間について述べていこうと思う。時間というのは、宇宙の誕生と共に生まれ、生まれ出た宇宙の物体の変化していく尺度であり、そのものの空間的役割も果たしていた(現代宇宙論ではどんどん新説が出され、そのかぎりではないのだが)。やがてその物体が空間的役目を担っていくと、時間は物体の変化ばかりではなく、空間的移動に対しても測る尺度となっていった。やがて生物が誕生してくると、時間はその生物の中に、記憶として産み落としていった。そしてその生物は、記憶を通して時間を感じ始めることとなる。
 現代は脳科学の分野も発展を遂げ、記憶というものの構造まで明らかにされようとしている。ここで詳しく述べるだけの技量はないが、一般的なところで言えば、大脳辺縁系に属する海馬と扁桃体とのメカニズムによって、情報を保存したりそれを蘇えさせたりすることまで知られてきている。このことによって推測するならば、記憶というのは時を刻むような断片的静止画面として貯蔵され、そして扁桃体の命令によって海馬はその保存されている静止画面を連射して映し出された映画のように、継続した時間として時間の連続性を意識させてくると想像される。もしそうならば自己においてみれば、時間というものも一つの認識現象でしかないのだ。【参1】
 現代科学は、物質の存在・現象の事実を重視する。その存在論や現象論などが論じられてきているのも時間というものが根底にあることを物語っている。これに基づいて時間を考えるならば、物事は時計が刻むような断片的な存在ではなく、一つの物事が継続して存在していく、ということが誰しも認めるところではなかろうか。ハイデッガーの言葉を借りれば「存在とは時間自体である」【参2】といわれているように時間の継続の中に存在を見いだしているわけである。
このことによって、明らかにいえることは、たとえ物体や事象が突然的な急変が起こったとしても存在それ自体は変わりなく、連綿と続いている時間の流れであることに他ならない。つまり存在そのものが時間の流れの中に存在し続けるならば、十世紀の存在と二十一世紀の存在と、存在そのものについては一つであることになる。
 それを生物学的表現を借りれば、生物の個体は変化したとしても、その中に内在する記憶(DNA)は連綿とつながっている時間なのだ。
 しかしながら、時間を感受する主体、〝われ〟においては、感受する時間は現在しかない。〝われ〟の存在全体において存在する今が現在である。それでは未来はいつか。存在という一点においてみるならば、未来はまだ生まれていない誕生の瞬間までの機である。それでは過去とは何か。今という現在から言えばこの身が滅び骨になってゆくのが過去と言うことになろう。今という現在に立つとき、まだ生まれないのは未来の事であり滅んでなくなることは過ぎ去った過去の事になる。妙な話に思われるかもしれないが、〝われ〟という存在の出来事の内容からいえばそのようになる。これを「どれが先か」という順番で言えば、〝まだ生まれていない〟が先であり、その次は〝今現にいる〟であり最後は〝死んで亡くなる〟”という順番になる。因果の法にのっとれば、現にある果としての〝われ〟の因は、母親の胎内に宿る、ということだ。これは言うまでもなく因が先で果が後である。この時自己認識に立って見れば、自己を認識している今が現在である。それならば、〝われ〟の存在の因である受胎の事象は未来なのである。同様に、今の自分が因となって、やがて老いて死んでいく結果は、今を現在と見るならば、老いて死んでいく事象は過去となるわけである。
 しかし、今〝われ〟が存在している現在から見れば、受胎だった頃の未来は過ぎ去ってしまっている過去のことになる訳で、同様に老いて死んでいく果としての事象はまだ過ぎてはいない未来の事となる。このように、未来であるはずのできごとが過去になり、過去であるはずの出来事が未来になってくる。なぜこんな事が起こるのか。これはご想像の通り、時間というものを流れの中でとらえるか、あるいは認識内容としてとらえるかの相違から生まれたパラドックスである。【参3】
 随って時間を認識論に立って考えるに、時間というものは未来に向かって移動しているのではない。事象は現実にしか起こらないのだ。時間は現在に留まって次々と事象の記憶を過去に産み落とし続けているだけなのだ。だから存在というものは、現在から産み落とされた過去の始点までの距離である。存在は現在に始まって現在に終わっていく。しかしながら存在の意識は現在にしか存在せず、過去はすべて記憶にほかならないのだ。言うなれば、意識と記憶の我においては、現在と過去しかないのである。過去とは、現在の副産物に他ならない。それが故、過去の責任は現在の我にある。それは仏教にいわれる業なのだろう。現在を過去の結果として過去に責任を求めても、その責任は取るすべもなく、未来もその現在を原因としての結果になっていくとしたら、すべて定まりきった運命論でしかなくなってしまうではないか。業論は過去の業縁によって現在の我があるとするのだが、その現在の我が起こした業なのであるから、現在の我に責任の所在であることに於いて運命論ではない。この業論に立つ限り、時間は現在から過去が作られていくことは明白なのである。
 次に、未来というのは想像である。想像は次々と創作されていく。つまり、前述したように、現在が因となってこれからの〝われ〟を作り上げて行く。すなわち未来というのは、創作された現実なのである。そしてその創作していくのは現実が次々と過去になっていく過去である。過去が未来を想像し創作していくのだ。
 したがって時間は、自己存在においては現実でしかなく、現実という時間は記憶という過去を次々と生み出し続け、また過去の記憶が未来を想像していく。その時間の意識構造的流れを図式すれば、
現在 → 過去 → 未来 → 現在
という連鎖に他ならない。
 人間において過去を失うことはどれほどのダメージなのかを考えるとき、その人の存在が消失することと等しい程の苦痛であろう。我々は過去の物忘れを笑ってすましているが、事故や病気によって、自分の過去が思い出せないで苦しみもがいている人もいるのだ。その人の意識的時間はすでに現在から過去へと向いているのだ。