序 章

第二節 時代論

 時間を自己認識と離れて人類との関わりにおいて見るとき、それは時代となる。勿論広義的に言えば人類が始まる前からも〝期〟として分類されているのは言うまでもないことであるが、しかし前述しているように自己存在を必要条件として論じていこうとするとき、時間によって示されてきた存在が、人間付随という意味で時代は社会となる。つまり言うなれば、時間が社会を生み出すということになる。社会というのは、個の集合体を個としてみる時間論である。よって、時代と社会は同じ概念である。それは時間的視点で言えば時代であり、空間的視点からいえば社会である、ということだ。
 今ここで一つの命題を掲げ、少し考察してみたい。そもそも物体をはじめ生命体に至るまで、なぜ類似するものが存在するのか。そしてまたなぜ類似しないものが存在するのか。この類似と相対の関係は常に相関関係を成している、という命題である。類似というのは一見曖昧な表現のように聞こえるが、その曖昧性は類似するものと類似しないものの境界だけであり、それを無視さえすればその二つで全存在を示していることになる。
 そもそも宇宙は時間と共に誕生し、やがてエネルギーと固体という風に類似しない二つに分離しながら宇宙という一体のものとなって存続していく。そしてその固体は凝固体と流動体に分離しながら一個を形成していく。その一個から物体と生命体に分離しながら同一の星に存在していく。その生命体は植物と動物の分化されて生存していく。
 このように、時間は類似しない物・あるいは相対するものを生み出すことによって存在を表現していく。そのことは、現実において同一の物・あるいは類似する物を生産するよりも類似しない相対的なものを生み出す方が、過去を表現する最良の方法なのである。それならば、なぜ類似するものが存在するのか。それは現在を表現するためである。現在は、次々と過去を生み出していくわけであるが、その瞬間的現在の存在の存続性をいかにして証明するべきか、というと、類似的な物の存在によって現在という時間の存在を示しているのである。なぜ同一なものではないのかと言えば、全く同一なものがいくら存在したからといっても、同一である限り全く時間の経過が見られず同時でしかないからである。したがって同一ではなくほんの僅か変化した類似物の存在に依って時間の経過が認められる事になる。これによって現実と過去の存在意味が明らかになったであろう。
 ここで見逃してはならない大事な事象は、類似したものとそれに対する非類似な物とが同時に存在するという事象である。なぜ類似する物だけが存在するということがないのか。そのことは〝類似〟それ自身に相違があるからである。類似なるものを生み出していくとき、その先端には類似しないものが生まれ出ているのである。その二種類のものが常に生まれ出てくるのは、存在が時間であることの証でもある。こうしてできあがってくる時代というのは、現実であり過去であり、同様に社会もまた現実であり過去である。
 従って時代とは、ある同一なる物とそれに相反する物とが錯綜する時の流れである。そしてそれはいうまでもなく、宇宙の存在はそれらの二極によって構成されている。この考察の意図は、先ほどから述べている〝類似〟という存在がとても大事な存在である事を指摘しようとするものである。
 なぜそういう〝類似する存在〟のものがいかに重要であるか、といえば、類似という言葉は同一性と相違性の両方を持ち備えているからである。そしてそのことは空思想とも中觀思想とも呼ばれる仏教思想においての大事な概念の一つでもあるからである。【補2】