序 章
第三節 空間論
先に時間と時代を述べてきたが、その時代それ自身には時間のみではなく、すでに空間的要素が含まれなければならない事は必然であろう。なぜなら、時代には社会的要素が含まれているからである。自己存在を考えるとき、だれもが時間的・空間的存在である、というだろう事は容易に想像がつく。しかし、我々は常時それを認識して生きている訳ではない。さればそのことをどう認識するのかが問われてくるであろう。
これから自己存在という自己認識に立脚しながら仏教を理解していこうとする我々にとって、時間論においてもそうだったように、存在する場(具体的に言えば環境)がなければ、考えることは不可能であろう。逆に言うなら暗黙の中で自己を認識することなどあり得るのだろうか、ということである。仏教の十二縁起の中に〝識〟というものがあるが、これには眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識の六識があって、それらはそれぞれに六境に対応されて認識されてくる、と説かれている事は周知の通りである。その中継役がいわゆる六根であることもまたしかり。すなわち六境の環境を通して自己の存在場を感知しその中で記憶が構築されていき、自己が形成されていくのであろうと考えられる。よって空間というものは自己認識の上でも切り離せないことは十分理解できるであろう。
随って、自己存在に立って仏教を学ぼうとするものは、環境(とりわけ社会環境)を無視することはできないのである。
もう一点空間を認識しておくべき大事な点があることも見逃してはならない。それは空間(場)それ自体が持つエネルギーの事である。かつては空間には観測不可能物体(これをエーテルと呼ばれた)で充満しているのだ、と。だからそれを伝って光や重力が伝搬しているのだ、という説があった。その後アインシュタインに依ってエーテルを使わずに論証されていき、エーテルの影は薄らいでしまう。そして二十一世紀になって「統一場の理論」が提唱され、量子宇宙論などによって、時間空間の論争が又新たな局面を迎えることとなるのである。
我ら浄土信仰に立つものにとって、〝場〟の問題を避けては通れないのである。それは〝土〟と言い〝地〟と言い、空間的表現を用いてその空間(場)それ自体が持つ人間変革のエネルギーを、浄土教は提唱してくるからである。そのことは、後に述べられてくることではあるが、その折々に出てくるそれら〝地〟や〝土〟に対して、空間エネルギーのことを認識範疇において見て頂きたいということを提唱するものである。
空間について、我々の存在は限定的である。時間においては自由に移動はできないが、空間的にはある範囲内で自由に移動できる。移動できることにおいてそれは環境となる。その観境は、人間の関わりの中で境遇となる。その境遇は、ただ空間的だけではない。そこにはすでに時代的要素も含まれている。この時間的・空間的境遇に〝わが身〟を置いたとき、「縁」となってくる。
ちなみに触れておくならば、『教行信証』(信巻)に「二種深信」【出1】が出てくるが、その「機の深信」は「曠劫より已来」というように時間的領域において述べられ、また「法の深信」では「往生」という内容であるがこれは強いて言えば空間的領域に値するだろう。しかもその文言からうかがえるのは、前者は過去から現在までの時間的事象であり、後者は浄土へ向かうという空間的領域と推することができる。
つまりこの「二種深信」の救済の構造は、時間的人生から空間的人生に転じていくことにあるのではないか。それは事実時間・空間に存在している身においては、やがて認識論の問題へと進展していくのである。そしてまたこの「二種深信」こそ浄土真宗の信仰の出発点でもあるのだ。