第一章 “われ”の所在 

序節 なぜ“われ”の所在を問題にするのか

 哲学者デカルトの「我思う、故に我あり」という名言は、あまりにも有名な言葉である。【参4】これは、意識しているその自分は紛れもなく意識していることにおいては存在しているという事である。もちろん言うまでもなく意識する〝われ〟は、〝われ〟においては存在するが、もう一つ踏み込んで〝我が身〟の存在をどう了解すべきなのであろうか。言い換えれば、〝我が身〟が存在するから意識する〝われ〟が存在するのか、それとも〝我が身〟が存在しているように認識しているのは〝われ〟の幻想なのであろうか、という懐疑的設問も生じてくる。しかし〝わが身〟が傷つくときに痛みを感じるではないか。それならば〝われ〟という意識は〝わが身〟の中に内在するものか。
近来「認識科学」なるものが提唱され、各分野の専門家たちが挑戦されている。その中で、生物学からの論文がおもしろい。ゾウリムシという単細胞の生物がいるが、これも意志をもってえさを求めて動き、危険だと逃げる。その意識は単細胞のどの部分にあるのか。そうなると、何がゾウリムシの体を動かしめるのか、物質的になかなか見いだせない、と言うのだ。【参5】
古来より人類は、「魂説」と「肉体説」との二元において困惑してきた。しかしその解答はとても不可能に近いだけではなく、無意味でさえある。その答えがどうであろうと、〝われ〟と言う意識がある以上、その〝われ〟をその認識的現実に所在を設置して考えていくしかないのだから。
 ただ我々は、所在ということと立場ということと、その違いを見極めておかなければならない。立場というのは、自分の意思や社会的義務などの能動的な意味をもつ。それに対して所在というのは非人為的意味での居場所を意味してくる。つまり所在はある意味ではごく自然的に現時点での存在場所を示していることにもなろう。
 ここで「〝われ〟の所在」と題した意味は、上記のごとく、自分はどこに立つべきか、あるいはどこに立たなければならないのか、ということではなく、今自分はどこに立たされているのか、という現時点での立脚場を明らかにしておかないとすべては見えてこない、という理由からである。それは、たとえばどんなに緻密な地図を持っていたとしても、自分が存在する現在地点がどこなのかわからない限り、目的地点にはたどり着けないのと同じである。よく生きる意味を問う人がいるが、たとえ緻密な大地図を開いたところで、自分はどこにいるのか、どこへ行こうとしているのかをはっきりしない間は、その意味を見出すことは不可能であり、万が一生きる意味を創造したところで居場所がはっきりしない間は歩むことさえできないであろう。
 おおよそ、真理を求める学問的質に二通りがある。第一には、真理を求める観測者に対して無関係に成り立つ法則を見いだす学問と、第二には真理を求める観測者にとって絶対必要不可欠なる真理を見いだす学問である。その第一においては観測者が誰であろうと関係なく同じ結果が生じることが当然であるが、第二においては、観測者にとっては別々の結果が生じてもかまわないということを意味している。だからといって、第二のそれを真理でないということは言えないのだ。なぜならば、観測者はそれぞれが、時間的空間的に同時に同じ場所には存在できないのであって、それぞれ異なる観測地点から観測すれば結果が異なってしかるべきであろう。したがって真理というものは、誰がどこから見ても同じに見える出来事と観測する人・観測地が違えば違うように見える真理があることを知るべきであろう。
 今、我々が求める宗教的真理というものは、その第二の学問的質にほかならない。したがってそういう意味において観測者たる〝われ〟の所在が問題になるのはむしろ必要条件なのである。