第一章 “われ”の所在 

第二節 本願の力学

 (一)我々にとっての身近な物理的〝力〟というものには、位置エネルギーと運動エネルギーがある。ある物が存在するということは、すでにそこに重力としての位置エネルギーの〝力〟を有するものである。そしてそれが、移動していけば運動エネルギーの〝力〟になっていくのは、ニュートン力学的レベルでは常識となっている。(勿論、それ以上のミクロ的・マクロ的レベルのところではもっと複雑なエネルギー理論も発見されているのは周知の通りであるが、我々が生きる空間の範疇ではむしろ位置エネルギーと運動エネルギーの二つが大きな意味を持っていることには異論はないであろう。)
 真宗教学には、法蔵菩薩の大願業力と阿弥陀の住持力の二つあることが説かれている【出3】。業力というのは行動力を示すものであるから、譬えるならば運動エネルギーに充当し、対して住持力とは持ち続け保ち続けていく事から位置エネルギーを示すと考えることができる。我々がエネルギーとして実感するのは、運動エネルギーの方であり、位置エネルギーに関してはなかなか実感できにくいのであまり評価をされないばかりではなく、感覚的に認められない方が多い。
 しかし、位置エネルギーこそ、そこにエネルギーが凝縮されて溜まっているということに大きな意味を持つし、それが運動エネルギーに転化したときそのパワーの大小に関わってくる。 その位置エネルギーのことをジンメルの『橋と扉』の言葉を借りれば、〝橋〟に喩えられる。橋は彼岸と此岸とが分断されている両存在を結合する意味を持つ。しかし橋は、両存在を結びつけ運動エネルギーの往来だけに留まらない。その領分を超えて橋そのものを固定化し建造物優美さまで具象していく。しかしそのことは、本来の目的を失ったわけではなく、むしろ本来の運動エネルギーの往来・流通のためにしっかりとした堅固さとその位置を公表することが必要だったのである。その運動エネルギーを往来させるためには、橋は堅強でなければならない。その堅強さが位置エネルギーなのだ。【参6】
 善導大師の書物に「二河白道の喩え」がある。それは親鸞も『教行信証』の中に引用し【出4】、その思想において重要な位置を占めていることは言うまでもない。この喩えの中で、同様に彼岸と此岸との分断が前提となっている。その両岸を結ぶのは、橋ではなく一本の細い道であるというところが異なっているだけである。細い道であるが故に橋のように無防備に簡単には渡れない。だから一心の決意が求められてくる。
 それではジンメルの〝橋〟という喩えの中で、先のような宗教的決意というのは必要ないのであろうか。ジンメルはもう一段準備していた。それは〝扉〟の喩えだ。この二つは同じ行き来する境界ではあるが、その性格は全く違うというのである。その一文をここに引用してみよう。
 橋の場合には、分離と結合という二つの契機が、どちらかといえば自然が分離し、人間が結合するという形で出会っている。それに対して扉では、分離と結合が同じように人間の作業のなかに人間の作業として侵入してくる。そこに橋と比べて、より豊でより生命力に満ちた扉の意義がある。そのことは、橋はどちらの方向に渡ってもいかなる意味も相違も生じないのにたいして、扉はそこから入るか出るかによって、まったく異なる意図が示されるということからもすぐに分かる【出5】
 ジンメルは橋と扉を使い分けて、自己と対外との結びつきを課題とする橋と自己の内と外の関係においてそこから出るか入るかは自分一人だけの課題であるということを示している。この扉こそ自分自身の決意の領域になってくる。自分という個を家に喩え自分の中に閉じこもってもそこから出てくる扉がある、ということを強調しているのだ。しかも自己と外の境界を超えて「いつでも好きなときに自由な世界へとはばたいていけるという可能性によってはじめて、その意味と尊厳を得る」というように、一人一人にある扉に篤い信頼と尊敬をもってのべられている。
 こうしてみると、この橋の比喩と同様に阿弥陀仏やその周辺の表装の艶やかさは、単に権威を象徴しているのではない。人々を渡しつづけてやまない阿弥陀仏の住持力の具象化なのだ。目的は本願力が我々までに働いてくる行程なのだが、なかなか認識できない我々の為に、シンボリックにまた芸術的優美さをもって表現しているに他ならないのである。このことはこの橋の比喩の意味と同じように感じられよう。
 したがって、我々は阿弥陀仏や周辺の艶やかさを通して、そこを往来している運動エネルギーを認識し、我もまた、そこを往来しようという意欲の芽生えることが願われているのである。その願いは本願力ではなく、自らの扉を開いて出て来る人をひたすら待ち続けている阿弥陀の住持力なのである。そのことはとりもなおさず、阿弥陀仏のみがその人を信頼し続けている、ということに他ならない。
 しかし、一人の人間の扉には決して外から入り込むべきではない。宗教は往々にして人間の扉を開きたがるし、言葉巧みに扉から入り込む者もある。そうして入り込まれた人間はその人格が崩壊されてしまうであろう。あるいは多重に人格が存在してしまう事にもなってしまうかもしれない。そこに宗教の魔性が隠されていることに、我々は充分心しておかなければならない。あくまで扉は自らの手で開かねばならないのだ。
 阿弥陀如来は決してその扉を開いて入り込んだりはしない。じいっと待ち続けるだけなのだ。それをどうやって知り得るのか。別に扉を開く必要はない。そこに窓があるではないか。窓からそうっとのぞいてみるがいい。そうすれば、ずうっと待ち続けている阿弥陀様に気づくであろう。窓から美しく堅固な橋が見えるように。
 (二)かくして第一節で述べた法蔵菩薩の「我が境界にあらず」という言葉にもう一つの内容をここに見いだすことが出来る。その内容には二つあって、その一つは前述の時の問題。それを〝橋〟で言い表す彼岸と此岸は未来と現在に当てはめることもできる。それは言うまでもなく、未来の衆生を救わんとする法蔵菩薩の願心の表れに相違ない。もう一つは、〝扉〟に喩えられた内と外の問題。それはどうしても踏み込むことのできない個の内実の問題の救済を願っている事を意味する事も考えられることであろう。そのことは、後に〝信の問題〟に触れて述べることになるであろう。
 したがって、言うなれば法蔵菩薩の境界から外れたところの課題は、未来と内の問題であった。まさに思惟の範疇を超えた世界を覩見し、思惟していくのである。ここに本願が建立され、力が有されなければならない理由があるのである。