第一章 “われ”の所在 

第三節 “われ”の所在

 人間は何を失ってきたか。原始的だった間は、自分の肉眼でしかあらゆる事象を見ることはできなかった。肉眼だけが頼りだった。やがて、人間は第二の目を持つようになって、自らの所在を失っていく。第二の目は、至る所まで見せてくれるのだが、その見ている場に自分はいないことは自分で認識している。そして人間は、その場に身を置かなくてもその場のあらゆる事象を見続ける事ができることを知ってしまうのだ。そうなると、見たり聞いたりする認識と身を通す体験とが分離してしまい、なおかつ分離することに何ら疑問を持たなくなってしまうのだ。むしろ身の保全を考えるならば、その方が安心していられる事から言えば、そのような方向に流れていっても不思議ではない。
 これが現代文明の特徴の一つである。我が身を安全な処において物事を見る。これはバーチャルリアリティの世界だ。そしてそのことが現代人の人生観を構築していくとき、我が身をどこかに置き去りにしてしまうのだ。そうして、身を忘れて、どんな過酷な社会状況でも自分の身に害が及ばない限り安全だ、という誤認を植え付けさせ、その結果、我が身のすぐそばに起こっている災難にも傍観できる意識構造が育てられていくのである。
 その災害の火の粉がこの身に降りかかってきて痛みを感じた時初めて、この身をいかに逃がしてやるべきかに翻弄するのである。
 ここまできても身と〝われ〟とが分離したままで、今度は我が身を勦(いたわ)ろうとする。考えればわかることであるが、身が苦しいときは〝われ″も苦しいではないか。身が〝われ″に離れてあるのではない。きわめてあたりまえの事であるが、身と〝われ″とは切っても切れない〝我が身″なのだ。もはや身から離れていく浮遊的思索は無用であろう。我らは自らの身の居場所を探り当てなければならないのだ。自分の身に帰るために。
 かくして、人間はこの世に出現するのである。
 人間とは身を持つものである。人間とは身の上に生きるものである。身の上に生きるということは身の回りのあらゆる事象に傍観者でいられないということである。傍観者とは何も考えない者を言うのではない。物事に翻弄しあらゆる思索を廻らす者の事なのである。その浮遊的思索する意識はすでに身を離れている。身を離れる思索が傍観者なのだ。そしてその傍観的思考を〝客観的思考〟あるいは〝科学的思考〟と言う言葉で持て囃されてきた。しかし科学の先端は、観測者の位置によって時間の伸び縮みが異なってくる、という理論まで来ていることは周知するところであろう。これは主観的に変わってくることを意味しているのだ。
 随って我々は、我が身を回復しなければならない。それでは、身を回復し人間となりし者が第一になすべきことは何か。それは身の所在を明らかにすることである。身を失っていた者が身を回復するということは、単に体を得るということではない。自分の居場所が見つかった、ということである。それを換言するならば、所在が明らかになる、ということである。所在が明らかになるということは、その居場所において時間的空間的に認識するというこことを意味している。我が身の居場所においての時間的空間的認識というのは、言うなれば国土ということである。その国土において、たとえ時間的空間的認識を持ったとしても、そこに身を持たない限り、自らの存在エネルギー・運動エネルギーは働かない。我が身の居場所が定まると言うことは、その居場所においてはじめて位置エネルギーと運動エネルギーとを獲得しそれらを発揮し得るのである。
 「われ」というとき〝われ″それ自身は本質においては人間の本質といってもいい。しかし、人間の本質と言うのを他の何者からも影響されない本来性とするならば、それを本質と明確に言うことは難しい。なぜなら、それが何らかによって影響され変化してしまうならば本質とは呼べないからである。それを又本性とも呼ぶことができようが、古来から性善説とか性悪説とか説かれてくるが、仏教においては「無自性空」と説かれ、すべてあらゆるものは縁によって存在するものであって、それそのもの自体存在するものではないと説かれる。あるいはあるがままにある、という真如の思想もあり複雑な論議がなされている。
 次に〝われ〟の相を見るとき、それは多様であり、それぞれの立場で相は変わる。しかも相は単独で相があるのではなく、その立場にいる相手との関係性が相として顕れてくるのだ。それこそ縁のなせる技なのである。すなわち言うなれば自己の中にある他者ともいえよう。他者は完全無縁には存在しない。〝われ〟と何らかの接点があって初めて他者と言える。つまり他者とは大小様々な影響をし合っていることを意味する。
 この章において〝われ〟の所在を問うことがこれからの問題を思考する上で必要であることを提唱してきたその理由は、この第二章において『教行信証』を考察していくとき、〝われ〟の所在を明確にしながら考察して行かなければならない事をまず確認しておきたかったからである。