第二章 黎明の教学 −『教行信証』−
親鸞の『顕浄土真実教行証文類』について、その解説書・解読書・分析書等は諸師・先輩によって数多く出されている。しかし、親鸞を訪ねる書物にはまだ出会ってはいない。それは、『教行信証』自身親鸞の心や人間性を表現していないからか。少量の部分を除けばその通りであろう。ほとんどが文類の配列で綴られている。だから選号も「愚禿釈親鸞集」と示されている。それは親鸞が〝集〟めたものであって、論じたものではない、ということがいえる。
しかしもう一方で、集めた文類を配列することによって論を展開しようとする論法もあることを認めておかなければならない。そういう意味では、浄土往生を論じる論書であることに間違いはない。にもかかわらず、この書において親鸞を訪ねようとしているのはなぜかというに、第一章までにその意を示して来たと思うが、一口で言えば、私は親鸞に会いたいからである。それならば、どこで会うのか。私が鎌倉時代に戻って会うのか。それだったら単なる人物伝回想録になって、出会いとは言えないだろう。出会いとは、この場なのだ。二十一世紀であるこの場において親鸞に会うのだ。そうでなければ出会う意味がない。
かくして、この二十一世紀の親鸞は何を語るのか、そしてわれわれの二十一世紀に夜明けがくるのか、これから親鸞を訪ねて行きたいと思う。