第二章 黎明の教学 −『教行信証』−

第一節 真宗の場の理論(真実教)

第一項 二種回向というベクトル
 親鸞の『教行信証』において、「淨土眞宗を案ずるに二種の回向あり」というテーゼの提示から始まる。このときの〝浄土真宗″とは史上における一宗派としての浄土真宗ではない事は、言うまでもないことであり、次の回向という言葉によって明白である。その回向とは何かというに、本来は自分の行った行為を廻らしひるがえして衆生救済や自分の悟りの為に差し向けることを意味しているが、親鸞は、行為そのことより往相・還相という方向性に力点を置いた。 往還とは、一般的には一人の人間の修行のうえで往くことと還ることの往来する道のりとして了解されている。そのことからいえば時間的経過で言えば一直線上になるが、私はこの二回向は同時に存在するのであり、往と還とのベクトルにおいて場を表現し、そのベクトル場こそ親鸞自ら存在すべき存在場として表現していると考える。
 まず、往と還という二次元ベクトルにおいて平面的に場を表現する了解を述べてみよう。たとえば自分の存在点を基点として往来のベクトルならば、直線上における真逆なベクトルになり、自分の行為の方向を示すだけで二次元的場は形成されない。しかし異なる二ヶ所を起点として互いに向き合うベクトルを考えるならば、二線が重ならないかぎりにおいて、そこに二次元的場を形成する事ができるのである。それは基点が二ヶ所を持つことによって場を成立させると同時にそこにかかる力のベクトルにもなってくる。よって場と力は同次元上で依存する。場のないところに力は作用できないし、場とはあらゆる力の均衡を保っている状態をいうのであって均衡が崩れると場は崩壊する。
 この往還のベクトルは、位置の異なる二つの基点から互いに他の基点に向かって行くベクトルであるわけだが、それが直線上で二つのベクトルが向かい合っているならば、互いに重なり合って場は出来ない。場が出来るためには、ベクトルの方向がずれている必要がある。ずれていれば二つのベクトルによって平面を構成するので場が表現される。しかも、この二次元平面でマイナス面を考えなければ、往と還という二つのベクトルは、平行線である時を除いて必ず交わる。(最も平行になるときはどちらかがマイナス面に行くときであるから平行になることはないのだが。)
 さて、まず往相のベクトルとは何か、と言えば、我々の人生のベクトルである。人によってベクトルの角度が異なるということで個性を示す。また還相のベクトルとは如來の救済の本願力回向のベクトルである。これも個人個人によってその角度が変わる。何故変わらなければならないかと言えば、時機に相応するからである。この二つのベクトルの角度がそれぞれに変わりながら交差していく。それではこの交差する一点は何を意味するのであろうか。それは自身の存在場を示す。自分の居場所を示すポイントである。二つのベクトルの交差するポイントは、それらのベクトルの傾きによって変化する。変化するという意味は、自分の存在場としている往相のベクトルの角度をどのように変えても、還相の本願力回向のベクトルはそれを逃さず、必ず交わってくる、という意味を持つ。言い換えれば、社会という二次元平面のところで、自己がどのような歩みをしようとも、浄土からの機縁は必ずある、ということを意味しているのである。そしてベクトルが交差するということは、二つのベクトルの和合によって新たな方向を生み出すこととなるのである。
 したがって、今言うところの浄土真宗は、思想・教義ではない。自らの存在場である。場である以上、自らが存在する社会を示す。その社会を思索していくときそこに浄土が課題化されてくる。その課題を生み出してくるのが、往と還の相である。
 それは、自己の存在である往相というベクトルの直線のうえに、如来の還相のベクトルが交わった一点に自己の存在場が存在するということにほかならない。それを真宗教学の言葉で言えば、〝一生補処″にあたるのだろう。〝処″とは仏処。この無仏の時に仏のまします場を補うということであるから、存在場を獲得するということは人を教化する場に立つということだ。人を教化するのは己ではない。その場が人を教化するのだ。人はその存在場を獲得した人を見て教化されていくのである。だからその場を「教化地」と呼ぶ。もっと言えば、教化とは存在場の共有であろう。存在場の共有というのは、同一空間ということではない。各各が歩んでいるベクトルの上に還相のベクトルが重なってくる交叉点は、各々のベクトルの上に現れるのであるから、同一にはならないしそれは無数にあることを意味してくる。その無数の存在場には『証巻』に言われるように「弥陀如来は如より来生して、報・応・化種々の身を示し現れ」るのである。いろんな姿かたちをもって我々の前に現前する如来は一人一人の存在場であり、その存在場に立ち上がった人なのであろう。
 各々のベクトルは同じ角度になる必要はないし、また、如来の方向を向いていなければならないことはない。もし、正しく如来の方向を指し示していたらベクトルは直線上に重なってしまい交差しないことは前述の通りだ。如来の方向を背き続ける我らであればこそ、如来の回向に交差する事ができる。ただ必要なのは、背き続けていることの自覚であろう。背き続けている自覚によって場の存在を発見するのである。背き続けている自覚は、背いている相手の自覚に他ならないからだ。その相手を意識しない間は、ベクトルの交差する場の存在にも気がつくまい。いわゆる機と法の二種深信はこのことをいっているのだろう。
 場と場に立つ者との関係は不一不異である。場はその場に存在する者(物)がなければその場は空虚であり、また人間は場を失っては生きられない。したがって人間と場とは切っても切れない関係なのだ。何人も場を奪ってはならぬ。何人も場を奪われてはならぬ。自ら魂を浮遊させてはならないのだ。浮遊してしまった魂は、世俗の風に乗って自らを去ってしまう。存在場が必要なのは魂なのだ。魂が存在場を求めてやまないのだ。
 場が持つ力は 位置エネルギーだ。いつまでも待ち続ける阿弥陀の住持力である。そしてそこに立つ時、人間には運動エネルギーが生まれる、本願力である。本願力は自分で起こす力ではない。阿弥陀の住持力という場のエネルギーによってもたらされるエネルギーなのだ。場が我々に与えてくれるエネルギーなのだ。そのエネルギーは仏の名号に象徴される。その仏の名号こそ場の本体なのだ。その仏の名号に蓄積された住持力からあふれ出る本願の力は真実性を表現してくる。真実を求めて妥協しない力は本願力によるが故である。
 この存在場を親鸞は「時機純熟の真教」と呼んだ。二つのベクトルが交わった時と〝われ″を時機純熟というのであろう。ベクトル交差の時点が〝われ〟熟成の時なのだ。そして我々が生き生きと生きられる存在場は真教と呼ぶに相応しい学舎となる。そこでは、還相の阿弥陀は惜しげもなく法蔵を開いてくるのだ。
第二項 真実の『経』と「教」
 さて、往相と還相についての関係をベクトルで表現してきたが、親鸞は「浄土真宗を案ずるに二種の回向あり」というテーゼを建て、その往相廻向について「真実の教行信証あり」と述べた上で、「それ、真実の教を顕さば、すなわち『大無量寿経』これなり」と述べられる。これを包含的に表現していくならば、浄土真宗の中に二種の回向があり、その中の往相廻向の中に真実の教(行・信・証)があり、その教というのは『大無量寿経』である、と。一応そういう表現になっている。
 これに対してこの『教巻』の前にある標挙の文を見てみれば

          真実の教
大無量寿経
          淨土眞宗

とあるが、これをどう了解すべきか、という問題が出てくる。これを平面的に読めば、〝大無量寿経が真実の教であり、また大無量寿経が浄土真宗である″ということになろう。しかしこの図式を包含・被包含関係と了解するならば、〝大無量寿経の中に真実の教があり、大無量寿経の中に浄土真宗がある″という読みになるだろう。包含的になるかイコールになるかは別としても、上記のテーゼとは立場が逆になっていることに気づくであろう。こういう図式表現を宗祖が、包含・被包含関係として使われていたか、それとも『大無量寿経』の説明として真実の教であり浄土真宗である、というどちらかは知り得ないが、当時からの学的な科文の表現からも包含的であることはおよそ推測できるであろう。
 そうすれば、標挙では『大無量寿経』から浄土真宗が出てきているのに、『教巻』では浄土真宗から真実の教も大無量寿経も出てくる表現になっている。これはいったいどういう事なのか。
 仏教である以上、はじめは『経』から学ぶ。これが基本だ。だから『大無量寿経』から浄土真宗が生まれてきたということが通常的理解だ。ところが『経』から生まれた浄土真宗はその『経』を包含してしまったという表現になる。言うならば、浄土真宗は『経』から生まれ『経』を超えてしまった、ということを意味している。
 『経』から言えば、自分が生み出した浄土真宗が自分を超えたことにおいて、『経』が真実の教であることを証明している。そのことは人間関係においても言えることではないのか。
 たとえば、親鸞は法然の弟子である。その弟子である親鸞が法然を超える。超えられた師法然は師としてますます輝く。超えた弟子親鸞は終生弟子を貫き通す。師は師として自分をも超える弟子を育てる事が、師としての最高峰ではないか。これと同じ道理ではないだろうか。
 もしこの師弟関係が技術の伝達だけのものであるならば、師を超えるということはあり得ない。なぜなら師の技術を完全マスターしたときから師弟関係は終焉を迎えるからだ。そしてそれ以上になっていくときには、弟子だったその人が新たな師となっていくわけである。法然と親鸞の師弟関係は、技術や思想などその師が持ちうる全能力が伝達されるということではなかった。弟子親鸞は、師法然のコピーにはならなかった。そういう師弟関係ではなかったのである。
 それでもなおかつ師弟関係を名乗ることはその二人を結ぶ〝なにか″がなければならない。その〝なにか″とは言うなれば『経』である。〝経″と言う意味は言うまでもないことだが、〝たていと″と言う意味を持つ。サンスクリット語ではただの紐や綱をあらわし、つなぎ合わせる糸という意味から規則、綱要書、教典の意味を表しているわけだが、漢訳になると機織りの「たていと」に見立てたところが意義深い。機織りの縦糸はすでにそこに存在し普遍的なものとしてある。その縦糸に絡まるように横糸が織り込まれていき模様が描かれていく。すなわち『経』とは人間を貫いてすでにして存在するものということであろう。その『経』という縦糸に絡まる横糸の関係が、法然親鸞にとっての師弟関係であったのであろう。
 このような原理はどこで成り立つかといえば、存在場をおいてほかにはない。その存在場に気づいた時に『経』が〝教″になってくるのであろう。たとえ『経』がどんなに普遍的であっても、教えというのは〝時″がなければ教えにはならない。教えがいつでも通用すると思ったら大間違いだ。教えが通じるためには時が必要だ。時さえくれば教えは実るのだ。上記の標挙の文はそういうことを指し示そうとしていたのではないだろうか。
第三項 存在の場
 その場を親鸞は『大経』に具体的事例を拾い上げ、存在の重要性を見いだしている。その内容は、第一章第一節で触れた釈迦と阿難の出会いの場面だ。構造的には阿難の問いを発する場面であるが、内容的にはその問いの中にすでに答えを含んでいる。それは「去来現佛 佛佛相念」にほかならない。この仏仏相念こそ真実の利益であるというのである。それがなぜ真実なのか。それは去・来・現の三世を通して念じあうというところに真実性があるのだろう。つまり、過去現在未来の三世を貫く普遍性でありながら、念じる〝今″という一時性を意味していることが重要なのだ。単に過去から未来にまで通した普遍性の事象だけであったら、真実という意味がない。過去から未来まで一貫したことが〝今″という現実に興るということが真実の意味なのである。〝今″という一時において過去の仏を念じ、未来の仏を念じるということは、〝念″において時間を超えているのである。そのためには、そこに自己存在がなければならない。自己と時間が一体になるのだ。
 ただ、自己と時間が一体になるということは、過去を回顧したり未来を空想することではない。過去の仏が現実に念じられ、未来の仏が現実に念じられることにおいて現在の自己と出会うことを意味するのだ。出会うということは存在ではなく現象である。現象が起こってくるから真実なのだ。そのことを親鸞は「時機純熟の真教」という言葉で言い当てている。
 さればその時機が熟されたことの内実はどういうことか、と言うに、〝問い″であった。その〝問い″の内容であった。『大経』では「斯の慧義を問えり」と述べられ、また『如来会』では「如来に如是の義問いたてまつれり」と言われるごとく、如来の意味を問うているのだ。その〝問い″は自問ではない。他に問うているのだ。他に問うと言うことは、その他との出会いを意味する。言うなれば、自のベクトルと他のベクトルとの交差である。交差したとき互いに一つになり、別の新たな方向のベクトルを生み出される。それは衆生のベクトルか如来のベクトルか。それは、衆生が如来になったベクトルであり、如来が衆生に示現したベクトルということになる。それを「去来現佛 佛佛相念」と言うことなのだ。このことがやがて真宗の根幹をなすことになる。すなわち「念仏成仏」と言うことにつながっていくのである。