第二章 黎明の教学 −『教行信証』−

第三節 存在の認識論(真実信)

 人間は偉大である。悲観的かつ破滅的状況の中で、その内実は根元的生命に促されながら、否定と肯定の葛藤の思索を繰り返しているのだ。表面では楽しそうな振る舞いをしていてもシッカリと苦悩を背負っているのだ。それはもはや自分の意思ではない。楽しみの日常の日々の隙間から苦悩がこぼれ落ちる。
 苦悩の中には何かがある。自分も知らない何かがある。なんにもなくて苦しむのではない。何かがあるから苦しいのだ。本当に何もなければ苦しみもない。
 されば友よ、嘆く事なかれ。悩みを背負い無言なる君よ、多く語る必要もない。歩んでいる君の姿がもうすでに君の箴言なのだから。
 

 人間は偉大である。どこから出てきたのかさえわからない黒い闇。彼は黒い闇の中から聞こえてくる悪魔の声を聞いてしまった。
 されど友よ、悪魔の声におびえる事なかれ。人間には恥じらいがある。その恥じらいは君を愛し、君を尊び、君自身を再生してくれる。
 だから君よ、悲しむ事なかれ。ただ自らの恥じらいに身を任せればいいのだ。

 人間は偉大である。その偉大さは、物事を成し遂げる偉大さだけではない。何もしなかったことの偉大さもある。引き止まる事の偉大さもある。
 だから友よ、やりたいことがあってもやれない自分に迷う事なかれ。
 だから友よ、やりたいことが見つからないことに萎縮することなかれ。

 人間は偉大である。人間は過ぎ去った過去の人をも慕い続けることができるではないか。
 人間は偉大である。まだ見ぬ未来の人をも思い続けることができるではないか。
 だから諸人よ、堂々と生きるがいい。人間それ自体尊いのだから。
汝の名は・・・・・・・・・人間なり。


 雑毒の善。我らが善に毒が混じっているという。それならば逆悪非道の罪悪に薬が混じっているのだろうか。毒が有害なるものとするならば、薬は有益なるもの。善人が人のためと思って行う欺瞞性。それは有害か。大悪人が流す一粒の涙。それは有益か。
 善人の諸善は善人のものに違いないのであろうが、もしも悪人に流す一粒の涙があるとすれば、それは悪人のものであろうか。そしてその涙は悪なのか。
第一項 人間、この苦悩に喘ぐ者
 闇の中に呼びかける声がある。それは如来の名を呼ぶ声だ。しかれども「この無碍光如来の名号よく衆生の一切の無明を破す、よく衆生の一切の志願を満てたもう」【出15】といわれるが、念仏しても未だ無明は晴れず志願の満たされないのはなぜか。親鸞は曇鸞の言葉を引用してそのような提起をする。そのことは、現実は無明であったことに気づき、内在する志願があったことに気づいた親鸞の姿であろう。ここに親鸞の宗教性があるのだ。身を外に置いての思考は単なる思想でしかない。その思想が我が身において成り立つのか、という実験こそが宗教であり、日本語で言うところの「道」なのである。
 そして親鸞は一つの法語に突き当たる。

この五濁・五苦等は、六道に通じて受けて、未だ無き者はあらず、常にこれに逼悩す。
もしこの苦を受けざる者は、すなわち凡数の摂にあらざるなり。【出16】

 人間はすべて苦悩に逼悩する。その苦を受けない者は人間の数には入らない、と。世間を見ると、苦悩に逼悩する者ばかりではない。現に苦を受けていない様に見える人々はたくさんいる。この一文は「苦を受けていない様にみえている人であっても、苦悩しているのだ」ということなのか。それともそういう人というのは、人間を超えた聖者を指しているのだろうか。
 今この「苦を受けざる者」とはいったいだれか。親鸞の書は言うまでもなく苦悩の中で歩むべき信心の行程を述べて語っているが、その書の中に断片的に織り込まれてくる内容に「苦を受けざる者」の存在を想像させてくる文章が見いだされる。
 その表現を変えて言えば〝愁悩を生ぜざる者″、〝慙愧なき者″という言葉と苦を感じない点に置いて同義であろうし、また、阿闍世の苦悩に対して、六師外道という〝苦悩せざる者″の慰めが述べられている『涅槃経』を長々と引用しながら、親鸞は何を述べようとしていたのだろうか。
 『教行信証』の『信巻』の裏表紙に、所謂「悉知義の文」が無造作に書かれているが、これについてもさまざまな議論をかもち出していることは周知の事であろう。この「悉知義の文」は『涅槃経』の一節で、その内容は、父を害しても愁悩のない王様の名を悉知義によって、つらつらと述べられているというものだ。つまり、悉知義は、父王を殺害しても愁悩しない王が数多くいたことを示している。親鸞はこの『信巻』の裏表紙に記しているのは、(草稿本であるからメモではないかという説もあるが)むしろそこに論考の標としておいてあるのではないかと私には思えてならない。つまり、親鸞の心中には、苦悩せざる者の救済という課題が潜んでいると、私は思えてならないのだ。言うなれば、この『信巻』を書き始めていくもう一つの序文にほかならない。
 苦悩を受けざる者は、どういう時代にも存在する。而して、〝苦悩を受けざる者″とは、どういう者たちであろうか。人間関係においては、苦悩は与える側と受ける側の関係がある。その相互的関係からいえば〝苦悩を与える者″ということになる。しかし苦悩は対人間からばかり生ずるわけではない事は言うまでもない。とするならばもう一方では傍観者を指すことができるであろう。傍観者とは、一切の苦悩をただ傍観するだけの存在でしかないからだ。
 本来、仏教の根本思想である四法印、人間は苦悩するものである、というテーゼから言うならば、〝苦をうけざる者″は存在しないことになる。〝苦をうけざる者″が存在するならば、そのテーゼは偽であることになる。親鸞においては、そのことは仏教の根本思想にまで問い直さなければならないという深淵にまで追い込まれていた心境に違いない。そのことは、当時の社会情勢の中で、飢えや餓死という民衆の苦悩をよそに平然と勉学に励んでいる僧侶の傍観的姿を目の当たりにしての心境もあったのではなかろうか。
 信心の課題は、常に主観であるべきであって、傍観視している間は、信心は成り立つはずもない。なぜなら、信心とは自己の主体的問題であるからだ。そういう意味においては、傍観者であることの問題は信心獲得の問題でもあるはずである。
 また、脳科学分野において、他人の苦痛を見たとき、普通は不快を感じる脳の部分が発光するが、一部の人の脳は、他人の苦痛を見たとき喜びを感じる扁桃体や腹側線条体が活発に活動するという実験データもシカゴ大学から発表されている【補6】。我々が傍観視するその脳内的根底に何かしら異変が起こっているのかもしれない。そうしたとき、その脳内反応を自らの意志によって変革出来るのだろうか。むしろ外的治療によって人間の意識をも操作出来るのであろうか。もしできるとしたら、それは許されることなのか。
 今、人間の苦悩を取り上げているのだが、もし今後科学が自由に人間の脳から苦悩を取り除き、また喜びを与えることになれば、そのときは人間とは何かを根本から問い直さなければならなくなるであろう。
 ともかく今は、逼悩する人間の苦悩を超えていくことが課題なのである。そのために親鸞はまず『観経』の三心を提起する。ここに「如来還りて」三心を説くといわれているように、これは如来還相のベクトルだ。これはまさに釈迦自身衆生救済のために自問自答して表されたベクトルなのだ。このベクトルと我々のベクトルが交差する一点が〝われ″の立脚点である。まず「至誠心」において述べられてくることは、我々衆生の虚偽性・悪性・「雑毒の善」と、如來の真実との対峙をもって語られていく。当にベクトルの交差の一点である。次には「深心」。これには序章の第三節空間論において触れてきたのでように、「機の深心」と「法の深心」の二種があるとされている。これも「機の深心」の方はわが身の迷妄の姿の自覚というベクトルであり、「法の深心」においては如来の救済というベクトルを信じるべきことを述べている。これもまた、ベクトルの交差に他ならない。そしてそれが信心の立脚地として顕されているのである。三番目の「回向発願心」においては思想的ベクトルの交差を示す。すなわち、「異見・異学・別解・別行」というベクトルと、「待対の法」のベクトルである。これは言うなれば行動のベクトル交差であろう。すなわち、この三心はベクトルの交差において〝われ″という主体の体・用・相を言い当てているのである。
 したがって、苦悩する我らは如来の還相ベクトルと交差していることの認識を自覚できるチャンスであることを意味しているともいえよう。ただ、三番目の「回向発願心」の内容に出てくる「異見・異学・別解・別行」の問題を「外邪異見の難」として、親鸞は『化身土巻』で大きく論じていく。
第二項 “われ”の存在認識
 そもそも存在とは何か。もっと緻密的なところにおいていうならば、認識しうるところの存在とは何か。この命題について存在の条件を言うならば、存在とは有限であるということだ。もし無限なる存在ということがあるならば、認識という点においては無と等しい。認識は有と無があって比較に置いて認識され得るのであって、永遠不変の存在ならば、それがたとえ認識されたとしても存在自体問う意味がなくなってくる。従って絶対有と絶対無はどちらも認識において等しいのである。 したがって、我らが存在すると言うことは、必然的に有限であることを意味する。
 さて、我らが存在は何かといえば、前項に述べたごとく「苦悩する者」である。それを上記した三心でいえば、機の深信に言われる「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫」という事であろう。そして、それをどのように認識(深信)するかといえば「曠劫より已来常に没し常に流転して出離の縁あることなし」と認識すべき存在であるといわれる。この〝曠劫より已来″とは無限を意味するのであろうか。言うまでもなく時間的無限は過去・現在・未来という物理的時間を突き抜けた無限を意味するので、ここの〝曠劫より已来″とは過去から現在までの物理的時間を指し示していることは、言うまでもない。すなわちいうならば半無限である。そして〝この先未来永劫″ということを加えることにおいて無限は完成する。すなわちこの機の深信は自らを認識する以上有限であらねばならない。よって〝出離の縁有ることなし″というのは無限の内容ではなく、有限の内容であるということになる。この無限的表現の〝出離の縁有ることなし″という内容は有限である。ということは、この事が有限であることにより残り半分が〝出離の縁がある〟事を意味してくる。なぜならば、未来においても〝出離の縁あることなし〟ならば、前者の過去と後者の未来とが和合して無限の存在となってしまうからである。
 したがって、「曠劫より已来常に没し常に流転して出離の縁有ることなし」ということを深信する、認識する事は、〝出離の縁あり〟というところに立って初めて認識できるものであろう。言うなれば出離の縁に巡り会ってこそ、「曠劫より已来」迷い続け救いの道がなかったことに頷く事ができる訳だからである。そしてその〝出離の縁あり″という根拠は、法の深信といわれる「疑いなく慮りなくかの願力に乗じて定んで往生を得」ということである。それに頷くことによって〝出離の縁″を認識するのである。そしてこの瞬間に、上記の第二節・第一項に述べたベクトルの交差が現象してくるのである。
 言うなれば、機の深信と法の深信とは一枚岩であるということであり、それは曠劫より今日までの流転の時と、今日即に往生を得るという願生の時を合わせてはじめて時空が完成するということなのだ。
 第一章において〝われ″の所在を課題としてきたが、それは〝われ″の存在と不可分である。すなわち〝われ″の所在を見いだすためには〝われ″の存在を明確にしなければならないからだ。その存在は先に述べてきたように、〝われ″の有と無の相違においてどういう相であるのか、ということを認識することなのだ。その時、未来に向かう想像の半無限ではなく、過去から現在までの実体的半無限に於いての相にほかならない。
 しかして、先に苦悩に喘ぐ者という実態を述べたが、その根拠を示すものが機の深信の文章「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫より已来常に没し常に流転して出離の縁あることなし」ということであろう。
 かつてより偉大な哲学・思想書が数多くある中に、人間全体ではなく、全く個人を定義づける文章がこれである。極端に言えばこれは万人に通じる定義ではなく、それに頷いた者だけに決定づける定義だ。いやもはや定義とも呼べないだろう。それではそれをなんと呼べばいいのか。それを先輩たちは「身の事実」と呼んできた。つまり自分自身においての事実なのだ。したがってそれが万人に通じるということではない。それは頷いた者だけの事実なのである。しかし、だからといってそれが真実ではないとは言い切れないのである。
 上記に述べたように『信巻』において、苦悩に喘ぐ人間を救済せんとする如来の心を「至誠心」「深信」「回向発願心」という〝三心″として発起せられる。はじめの「至誠心」は真実心である。これは、我らの行動が真実心の内より生まれ出ることをのぞむ心である。その故は我らの行動は真実心より生まれ出ることは〝不可″であるからとする。いわば我らが行動はすべて不実の行動に他ならない。それが故に「深信」にいわれるところの「罪悪生死の凡夫」であり「出離の縁あることなし」ということが身の事実として露わになっているのである。
 この身の事実は、「かの願力に乗じて定んでで往生を得」という真実心を内在としてわき起こる認識であるから、これも真実であると言わざるを得ないのである。この機の深信・法の深信の二種深信を深く認識されるとき、〝われ″の行動原理が明確になっていくのであろう。行動原理が見いだされれば、自ずと〝われ″の所在も明確になっていく。所在が明確になると言うことは、自ずと〝われ″の立場が明確になっていく。その立場とは「真の仏弟子」である。これは如来と〝われ″のベクトルが交差した姿にほかならない。それを「回向発願心」と言うのであろう。
 その姿は「この心深信せること、金剛のごとくなるに由りて、一切の異見・異学・別解・別行の人等のために動乱破壊せられず。ただ決定して一心にとって正直に進」む、という姿である。ならば「一切の異見・異学・別解・別行の人等」とは誰のことか。〝二河譬〟の中では〝われ〟を誘惑惑わせる他者のように描かれているが、『愚禿鈔』では「群賊は、別解・別行・異見・異執・悪見・邪心・定散自力の心なり」【出17】と釈されている。これは他人ではない、わが心なのだ。とするならば、この〝われ″の中に一心と先のいわゆる外邪異見の心の二心が同居していることになる。これは矛盾だ。二心あるままに一心にはなるはずがない。
 これをどう了解すべきか。この一心は「ただひとつの心」ではない。釈迦弥陀二尊の意(おんこころ)に信順することなのだ。二尊を信順しようと念じながら外邪異見の心は消えうるわけでもない。ここに自ずと慚愧心が生まれてくる。

大きに須らく慚愧すべし。釈迦如来は実にこれ慈悲の父母なり。種々の方便をもって我等が無上の信心を発起せしめたまえり【出18】

と。したがって、この一心は〝われ″の一心ではなく、如来の如来の一心であったのだ。
 されば、この慚愧心の中に〝われ″を崩壊しなければならない。〝われ″は常に自分の貪欲によって思い巡らし行動に走る。〝われ″は常に自分の正義によって憎しみの剣で人を裁き、自分が都合悪くなれば、慌てふためきその場を繕う。〝われ″は常に自楽を求め、快楽と怠惰の中に安住する。
 さればこそ〝われ″は〝われ″の中に崩壊されねばならない。もし〝われ″の外に崩壊されるならば、それは破壊であり消滅だ。〝われ″を破壊というその絶望の断崖に立たしめてはならぬ。〝われ″は〝われ″の内より〝われ″が崩壊されることによって、新たな〝われ″が再生されるのだ。それはまるで卵細胞のように、一個が二個に、二個が四個に細胞分裂していくが如くに、〝われ″は限りなく砕かれて、そして真実信心より発起するところの〝われ″が誕生する。
 〝われ″自身の貪欲や憎しみや愚かさが、ことごとく分断されることにおいて我が行為には至らないのだ。〝われ″自身は如来の真実心に満たされ、細々になった〝われ″の破片は満たされた真実心の水に浸しておけ。もし、欲求や怒りが必要な時は、真実心に浸されたところの〝われ″を須(もち)いよ、と説かれる。
 かくして、新たに誕生するところの〝われ″は歓喜に満ちあふれている。時には煩悩に眼を障えられて、その喜びが薄らいでしまっても、虞れることはない。
 たとえ「愛」というものが自らの障害となったとしても、たとえ「疑」というものが自らを蔽ぎ閉ざしたとしても虞れることはない。
 この〝われ″には常に本願の他力が用き続けている。だから、本願力という運動エネルギーは、立ち止まって動けないでいる〝われ″を動かしてくれるのだ。その〝われ″が動いていく瞬間を「一念」と呼ぶ。すなわち「信心獲得」というのは、我々を待ち続けている阿弥陀の位置エネルギーが本願の運動エネルギーに転じていくことであり、〝われ″の上に一念が起こったとき、その一念が次々と展開していくのだ。その展開が信心であり、そのことにおいて本願が成就すると言えるのである。従って、信心というのは、何か一つのことに凝り固まることではない。むしろ流動的に展開していくパワーを信心と呼ぶのだ。この信心の事を親鸞は「願力回向の信楽」といい「横超の金剛心」といわれている。
第三項 “われ”の不具足なるもの
 我々人間というものは、往々にして完全でありたいと思うものである。前項においての「外邪異見」の邪心においても自らは邪心とは思っていないし、正しいとさえ思っているに違いない。したがって不足のものは補い満たして完璧であろうとする。勿論、不完全であるが故に正しい思慮ができないと言うことは十分にあり得ることだ。しかし、何事も完全でなければならないのか。
 そういう問題を親鸞は、『経典』の中より「信不具足」と「聞不具足」の二つを拾い出して、その不完全さそのことの意味を吟味していくのである。
 親鸞はこの二つをどう扱っているかといえば、「信不具足」を「金言」と言い、「聞不具足」を「邪心」と述べている。全く正反対の評価だ。これは今後親鸞の思想を学ぶ上で重要な視点であることには異論はないであろう。つまり「金言」ということは信知すべき事を意味し、「邪心」ということは信じてはならない内容として取り上げられていると言うことである。
 それでは金言である「信不具足」の内容は何かと言えば、『化身土』に詳しく引用されているので、『化身土』の課題であることに違いない。しかしこの『信巻』において〝信″を明らかにするために、二つの内容で述べられてくる。まず、ここに列挙してみよう。

(一)一つには聞より生ず、二つには思より生ず。この人の信心、聞より生じて思より生ぜざる、このゆえに名づけて「信不具足」とす。
(二)一つには道ありと信ず、二つには得者を信ず。この人の信心、ただ道ありと信じて、すべて得道の人ありと信ぜざらん、このゆえに名づけて「信不具足」とす。【出19】


 まず(一)の方は何かといえば、〝われ″の信仰姿勢の問題である。思より生ずというのは思惟に立つということ。二河譬で言えば「我今回らばまた死せん、住まらばまた死せん、去かばまた死せん。一種として死を免れざれば、我寧くこの道を尋ねて前に向こうて去かん」という思慮と決断を示している。信仰とは、ただ鵜呑みにして信じることではない。限りない深い思慮を尽くした上での決断が信心なのだ。
 続いて(二)は何かといえば、〝われ″の信仰場の問題である。信仰場ということは「道」ではあるが、むしろ立脚地のことである。前の第二節第三項において述べてきた「歓喜地」の問題である。
 親鸞はこれを「金言」として肝に銘じよ、と。そして次に「聞不具足」については「永く聞不具足の邪心を離るべきなり」と戒められている。その「聞不具足」について見てみよう。これについては三つの不具足を引用されているので、ここに取り出してみたい。

(一)如来の所説は十二部経なり。ただ六部を信じて、未だ六部を信ぜず。これを名づけて「聞不具足」とす。
(二)またこの六部の経を受持すといえども、読誦に能わずして他のために解説するは、利益するところなけん。このゆえに名づけて「聞不具足」とす。
(三)またこの六部の経を受け已りて、論議のためのゆえに、勝他のためのゆえに、利養のためのゆえに、諸有のためのゆえに、持読誦説せん。このゆえに名づけて「聞不具足」とす。【出20】


というがごとくである。どれもごもっとものような気にさせられるが、これのなにが邪心なのか。先ほどの「信不具足」では「信は聞より生ず」とあった。そして「思より生ず」と。すなわち「聞思する」ということになってくる。このことは聞法してそれを思慮することだ。つまり「聞」そのものをも思慮していかなければならない。さすれば、「聞不具足」のなにが邪心なのか。
 そもそも〝われ″はなにを聞かなければならないのか。何のために聞かなければならないのか。仏教すべてを聞かなければならないのか。(一)十二部経すべてを知るべきなのか。(二)まだ読誦もできないのに他に解説して名ならないのか。(三)論議のため、勝他のため、利養などのために読誦や解説してならんのか。
 そうすると、この巻においては苦悩からの救済のためにあった。如来との出会いによって救済され、そこに生きていこうとする道、場が与えられた。その如来との出会いというのは、本願との出会いしかない。そうすれば、「聞不具足」の不具足は〝本願を信じる〟ことが全くないということだ。それが邪心といわれる所以であろう。前述そのものが如來を疑い、自分みずからの聖性にすがる邪心に他ならない。
 したがって親鸞は、

「聞」と言うは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし。これを「聞」と曰うなり【出21】


と名言されている。ここにベクトル交差の確かな証しがある。
第四項 “われ”の転換
 『信巻』のテーマは「称名憶念あれども、無明なお存して所願満てざる」という身の事実から始まる、ということは先に述べた。すなわち〝われ″の苦悩の根本を「無明」と捉え直すところから始まると言っていい。また、無明なるがゆえに生き甲斐も見いだせない。それを「所願(志願)」と言い直している。我々にとって、苦がなくなるよりも生き甲斐があるほうがより深刻だ。生き甲斐があれば、どんなに辛いことでも我慢ができるものだ。我々にとっては「志願」が見いだされることが先決なのであろう。
 それでは、その為には我々にとって何が必要なのか。『信巻』は真実だと指摘する。何故ならば、我々の在り方が顛倒であり虚偽であるからだ、と説いている。したがって我々の顛倒し虚偽である行為は、必ず真実心の中に捨てて須いよ、と言われる。その理由は、真実心は「内外・明闇を簡ばず」だからである。ここに大きな意味がある。「明闇」の明は「智明」であり闇は「無明」であることは言うまでもないことであるが、ここで注目すべきは「内外」である。
 親鸞は「内」は出世であり「外」は世間、また「明」は出世であり「闇」は世間である、と言われるのである。この時〝われ″は、内外のどちらにいるのか。〝われ″が無明の闇にある以上〝われ″は外にいることになる。そして〝われ〟の外に出世の道があったはずである。しかし、「内」は〝われ″それ自身でなければならない。
 そうなると、「内」なる〝われ″は出世の道にあることになる。そして「外」は世間なのである。何故そうなるか。それは顛倒している〝われ〟を真実に戻している真実心の用らきにほかならないからなのだ。この事は、如来の真実によって、顛倒している〝われ″がもう一度転回されるということを意味している。
 かくして〝われ″が〝真のわれ″に再生する。これを「真仏弟子」と名付けられる。あるいは「金剛心の行人」とも。金剛心とは「横の大菩提心」と言われるが故に、金剛心の行人とは菩薩である。つまり言ってしまえば、凡夫が菩薩になったということだ。そのことは『論註』に「かの安樂淨土に生まれんと願ずるものは、要ず無上菩提心を発するなり」述べられていることから裏付けられるであろう。
 そうであるならば、〝われ″と〝真のわれ″とは異質なものになったと言うことなのか。それは決してそうではない。妙な言い回しになるが、〝真のわれ″は〝われ″を越えてなお〝われ″である。異にして分かつべからず、である。〝われ″は〝われ″のまま〝われ″を越えて〝真のわれ″になるのだ。
 すなわち、〝われ″は〝われ″のままベクトルの方向が変わっただけなのである。〝われ″のベクトルと如来のベクトルとが交差する瞬間、その瞬間の心境を親鸞は悲嘆をもって述懐されている。そしてその述懐は、やがて難治・唯除の課題を抱えることになる。ただ抱えるのではなく、我が身のこととして抱える、そこに悲嘆があるのだ。
 さすれば、その悲嘆はすでに〝われ″のものではない。〝如来の矜哀・憐憫して難治の三病を治療する″といわれるところからみても、その悲嘆は如来の範疇にほかならないのだ。如来の範疇でありながら、〝われら濁世の庶類、穢惡の群生は如来の本願醍醐の妙藥を執持すべき″と述べられる。これが〝われ″のベクトル転換の内実に他ならない。
第五項 “われ”自身への疑念 −悲嘆述懷−
 人間、自分の願望に目覚め、それに向かって一筋に邁進する姿は美しい。しかしながら、必ずしもそれが実現するとは限らない。そこに挫折することもある。その時人は叱咤激励したりもする。
 同じく仏道もそうであった。ただひたすらに修行に邁進し、時には挫折をする。師、法然にまで傳承されてきた浄土真宗の道を歩みながら、〝定聚の数に入ることを喜″べない、〝真証の証に近づくことを快し″むこともできない〝われ″なのである。自分の道が明確になっていながらそれを心底喜べないのは、なぜなのか。
 〝われ″らは佛教を信じ仏道を歩もうとする仏弟子である。それを親鸞は「眞仏弟子」という。この「眞」の言葉は「僞に対し、仮に対する」と述べられる。それでは仏に僞佛、仮佛がいるということなのか。そんな事はありえない。むしろ〝われ″らが眞と思っている仏道が僞になったり仮になったりしてしまうことに対する言葉なのだろう。菩提心を発こすということは、まさに〝われ″の仏道を思慮し明らかにしていくことにほかならないのであって、そのことを親鸞は『止観』を引用して「菩提は・・・道と称す。・・・心はすなわち慮知なり」【出22】と述べられている。
 今、『総序』の文が思い起こされる。「誠なるかなや、摂取不捨の眞言、超世希有の正法、聞思して遅慮することなかれ」【出23】と。
 自らの道を心底喜べないのは、自らの道が歪められているからにちがいない。いや、事実は歪められている道の方に喜びを感じてしまっているからではないのか。真宗を歩みながら、その真宗を自分の都合に合わせてそれを真宗だと思い込んで、そこに自己満足しているのだ。全く「仮」や「僞」に気が付かない。それに気づかせてくれるのが菩提心なのだろう。〝われ″の信仰を横に摧る「横超の大菩提心」なのだ。この横超の大菩提心が〝われ〟の信仰を慮知してくるとき〝われ〟の執着心が暴かれる時なのだ。親鸞はここで「愛欲の広海」と「名利の大山」の二つで我執と法執の二執に囚われていたことに羞恥されている。愛欲とは我執によってもたらされる情感であり、名利は法執によってもたらされる心情である。そしてその根本は法執にあると説かれている。その法執である所知障によって正しい認識ができなくなっているのだ。そこには仏弟子として「眞」が見えてこない。しかしながら「偽」として「仮」としてのわが身を暴露していく覚語が「眞仏弟子」の名乗りではないのか。『信巻』の「二河譬」【出24】においての「無人空迥の沢というは、すなわち常に悪友に随いて、真の善知識に値わざる」という譬えの中に、親鸞その身の生々しい体験が置き換えられているのではないかと感じられてくる。
 したがって親鸞のこの「悲嘆述懷」は単なる後悔や反省などではない。それは自らの行動と思想を深く洞察し、新たな自己へと覚醒していく言葉なのだ。それが「恥ずべし、傷むべし」という慚愧に立ち上がる姿なのだ。そしてそのことは、「第十八願」の「唯除」されている五逆罪と謗法罪へと課題化されていくのである。この罪は我執と法執によって起こってくるに違いないのだ。すなわちこの二執をかかえることが「第十八願」の救済に乗托されていく姿にほかならないのだ。したがってここから『化身土巻』が開かれていく道すがらになっていくのである。
 そのためには、「慙愧に立ち上がる」ということを、もう少し明確にしておかなければならない。親鸞は、悲嘆を述べた後、「難治の三機」を課題にして『涅槃経』を引用されてくる。その中に「慙愧」を述べた文が「耆婆の言」として出てくる。この文言を少し見ておきたい。
 ここでは「慙」と「愧」に分け、それぞれに「内」と「外」に当てて考えられている。そして「慙は内に自ら羞恥す」と。また「愧は発露して人に向かう」と述べられているのだ。
 自ら自己内で羞恥心を抱く人は多い。しかしその羞恥を人に向かって発露する人は、果たして何人いるだろうか。親鸞の述懐は愧の姿であり、まさに慙愧に立ち上がった姿として、私の心に浸み込んでくるのである。
第六項 〝われ″の大罪と釈迦の不成佛 −「難治の三機」考−
 その五逆罪とは何か。自分の身近な大切な人を殺したり死なせたり、あるいは不和を起こしたりすることの罪である。ほとんどは自ら手を下して罪を犯すが、口で言っただけだったら罪ではないのかという、法律でいうところの「殺人教唆」的な問題がある。この問題は後の方に『涅槃經』においても軽・重の問題として取り上げられる。
 しかし〝罪〟それ自身とは何かを問う時、悪業という行為をいうのではない。その行為によって苦悩愁悴の念(世間の言葉で言えば罪悪感)が生まれて来た時、その行為を〝罪〟と呼ばれるのである。苦悩愁悴の念が生まれない限り、たとえ重大な悪業であっても罪ではない。悪業は社会的に裁かれても、仏教的問題ではない。何故なら、仏教には救済があっても裁きはしないからだ。言うなれば、苦悩愁悴の念が生まれて初めて仏道が始まるのだ。
 世間の人は、苦悩愁悴している人に何を語るか。ほとんどの人は「苦悩愁悴する必要なない。苦悩愁悴すればする程益々愁悴が大きくなるばかりだ」と、いろんな理屈をつけて慰めるがごとき言葉をかける。我々の知らないところから沸き起こってくる罪悪感は、我々の意志や理屈で消えるはずもない。それと同時に宗教的課題は、その罪悪感を取り除くことではなくて、その罪悪感が生まれてくる根源にたどり着くところにあるのだ。
 そのことを佛陀は、「慙愧」と説く。慙愧こそその人を救うのである、と説かれる。これは我々の発想と真逆ではないか。そうすれば、罪悪感をなくそうとし、慙愧心をなくそうとする思考や行為は、まさに佛陀の教えに逆らっていることになるではないか。とするならば、これが謗法ではなかろうか。
 一般的に〝王舎城の悲話〟においては、五逆罪は阿闍世、謗法罪は提婆達多がその罪の代表者にされて考えられてきたが、この『涅槃經』においては、提婆達多も又五逆の内の三逆を犯した五逆罪の人として扱わられているのだ。そうなると、謗法の人はだれか。
 ここに〝われ〟の謗法の大罪を感じぜずにおれないのである。
 悩める人がいるとする。その人に「そんなに悩むとからだにわるいよ。そんなものは水に流して明るくいこうよ」という。仏法に関わりのない人ならいざ知らず、仏法に携わる私が、仏法ではないことを、さも仏法であるかのように述べている。これが謗法罪でなくてどこに謗法があるのか。ここに、阿闍世と提婆達多の五逆と、六師外道と私の謗法が明らかになる。
 かくして、阿闍世の苦悩愁悴は、六師外道の慰めによっても晴れず、益々深まる一方であった。
 難治の三病の内の五逆と謗法は明らかになった。それでは一闡提はだれか。この『信巻』の『涅槃経』では次に「如来の密義」が述べられてくる。その密義とは何か。文中には「阿闍世王の為に涅槃に入らず」ということだ。密義であるから「汝未だ解することあたわず」という。つまり、釈迦自身が涅槃に入らないのだ。そして、その「阿闍世王の為」の〝為〟について話しは展開していき、ついに「仏性を見ざる衆生」に行き着く。
 すなわち、一闡提は阿闍世そのものであった。それは善根植えざる者、「無根」の者であった、というところに到達する。そして、そこで「阿闍世の為に無量億劫に涅槃に入らず」と釈尊は述べられる。すなわち、言うなれば釈迦も一闡提ということになる。釈迦は「善根植えざる者」ではない。ただ善根植えざる者の〝為〟に涅槃に入らないのだ。しかし、その精神は途中でやめるというようなものではない。無量億劫にも涅槃に入らないという精神なのだ。したがって釈迦自身も一闡提に他ならない。
 何故に釈迦如来は、そうまでして無根の者に付随していくのか。その如來の心を密義というのか。ともかくも阿闍世は如來世尊にめぐり会って〝信〟を得ることになる。その〝信〟の中身は何かといえば、

我審かによく衆生のもろもろの悪心を破壊せば、我常に阿鼻地獄に在りて、無量劫の中にもろもろの衆生のために苦悩を受けしむとも、もって苦とせず


ということである。これはすでに菩提心であると言えるだろう。したがって釈迦如來にめぐり会うということは菩薩になっていくということを意味してくる。そして『涅槃経』は後の方に、実義の菩薩と仮名の菩薩とを示し、その仮名の菩薩たちは、「如來は涅槃に入る」ということを聞いて「如來がいなくなったら、我々はどうすればいいのだ」と嘆き苦しんでいる。彼らは如来の意を解らないので、「如来は畢竟じて涅槃に入りたまわず」と述べられている、という内容で締めくくられている。
 阿闍世は、釈迦が三月に涅槃に入ることを聞いて、釈迦に遇いに来て〝無根の信〟を得る。それに対して、仮名の菩薩たちは、ただ憂い嘆くばかり。この違いは何か。
 阿闍世に象徴される実義の菩薩とは、事件あるいは出来事の当事者の事であろう。それに対して仮名の菩薩を譬えるならば、まだ事件あるいは出来事の当事者にはなっていないが、他の事件あるいは出来事を見て、自らの身を案じ不安に怯えているものたちのことではないのか。すなわち彼らは傍観者たちなのである。傍観者にも何時自分の身に降りかかるかもしれないので、仮に菩薩の名で呼ばれるのであろう。この傍観者のために如來は「涅槃に入りたまわず」と、初めは「阿闍世の為」だったのが遂には「仮名の菩薩の為に」という風に展開してきているのだ。
 したがって、一闡提は初めは加害者だったことから、やがて罪の犯していない傍観者こそが一闡提である、という結論を導き出している。これは実に重要な視点であるまいか。
 五逆と謗法は、前項で述べたように我執と法執によって生じてくる具体的事象であるから、当事者が明確である。そして本願文の「唯除」に取り上げられていることはすでに述べた。そして残された一闡提は、如來自身の〝不成佛〟性であった。その如來の不成佛性は一切衆生の不成佛と相即していく菩薩の精神に他ならなかった。そしてそれは法蔵菩薩の願心を証明するものに他ならない。