第二章 黎明の教学 −『教行信証』−
第四節 重層空間論(真実証)−存在の証し−
仏教の形態として、まず「教え」がありそれを「行じて」その結果「証」を得る、というながれで構成されていることは言うまでもない。『教行信証』も例外なく、教・行・証という展開がなされている。
それでは、この『証卷』に何が証しされているか、と言えば、一つは「利他円満の妙位」と「無上涅槃の極果」である。この二つをもって難思議往生というのであろう。これが真の往生の姿である、と。これも言うまでもなく、必至滅度の願より表れてきた本願力回向にほかならない。されば、この「必至滅度の願」をここで確認しておかなければならないので、まず、願文の方を見てみよう。
この願文の内容は、「浄土の人々は、定聚に住し、必ず滅度に至る」ということである。そしてこの成就文ではどう表現されているかを見てみると、
彼の国に生まるれば、みなことごとく正定の聚に住す。所以は如何。かの仏国の中にはもろもろの邪聚および不定聚なければなり
と述べられている。そうすると、成就文から見るに、この願文は「必ず滅度に至る」ことより「定聚に住す」のが目的であることを物語っている。すなわち「定聚」を問題にしている訳である。換言すれば、この我々の世界においては、「定聚」に「正」と「邪」と「不定」とがある、というわけである。それでは「定聚」とは何か。それをまず明らかにしなければならないだろう。
第一項 無上涅槃 考
仏教における〝覚り〟の表現を「寂滅」という破滅的表現をもって言い表そうとされる意図は何であろうか。有と無において無を表現するような言辞である言葉を使うことが、〝存在″という概念に対して何らかの示唆を与えようとするものであるのか。元来、覚りを「涅槃」と言いその意味は「煩悩を吹き消す」と言う意味であることは言うまでもないが、それから派生し〝滅〟という語が使われ「滅度」「寂滅」「寂静」などと訳されてくる。そして釈迦の涅槃図のように〝死″を表現する言葉にもなってくる。
また一方で〝覚り″は「静寂」や「安泰」という心境をも指し示す意味もある。そういう安らぎの境地は究極的には〝死″に行き着いてしまうと言うことがある。裏を返せば、死の恐怖という煩悩を乗り越えたところに安らぎが有るという意味にもなってくる。
仏教における〝覚り″の内容を「滅度」「寂滅」等という〝滅び″のイメージを持たせる言辞で表現する真意はどこにあるのだろうかを考察してみたい。
しかして『証巻』の文頭の『御自釈』に、
しかるに煩悩成就の凡夫、生死罪濁の群萠、往相廻向の心行を獲れば即の時に大乗正定聚の数に入るなり。正定聚に住するが故に、必ず滅度に至る。【出25】
とある。我ら凡夫は往相廻向によって正定聚に住する、というところまでは到達するが、滅度に至るのは先の事であるということを示唆している。しかも「必ず至る」という確実性は、我ら人間において死をはずすことができないことから「死に至る」ことも視野に入れて当然であろう。またそれに引き続いて、
必ず滅度に至るは、すなわちこれ常楽なり。常楽はすなわちこれ畢竟寂滅なり
と転釈されている。ここに述べられている「畢竟寂滅」の「畢竟」とは何を意味するか。この言葉も〝終わり″を意味する文字なので究極性を示していることは言うまでもない。つまり我々の行き着くところだ。人間にとって間違いなく行き着くところは〝死″の他にあるまい。その〝死″を「寂滅」とするならば、有から無に帰するということを意味する。自らの存在が寂滅し無となる。その寂滅がなぜ常楽なのかといえば、人間の存在〝生″そのものが苦であることに由来するからである。苦の有が滅すれば、無が楽となるという反作用的理解が考えられよう。しかし、そう考えれば単なる虚無主義と何ら変わらないし、大乗仏教の有無の両見を超えるという基本思想をどう了解するか。
言うまでもなく、有無を超えるとは我らが存在した有と滅していく無の両方を超えるという意味を持っているということだ。すなわち、生きている有の範疇ばかりに囚われることではなく、また、死期の無に囚われることもなく、またその両方にも囚われることのない境遇を言うのである。そのことを『証巻』の同引用の次に
寂滅はすなわちこれ無上涅槃なり
という言葉に行き着く。「涅槃」という言葉そのものは、「吹き消す」の意味があり、「煩悩を吹き消す」ということから「覚り」の義になってくる。この人間の生体から煩悩を滅することは、死と無関係ではいられない。その「涅槃」に「無上」をつけて大乗の覚りを示す。したがって、大乗の覚りは、有という〝生″において存在している我らが、「滅」という無に隣接してくることにおいて、有無を超えた、つまり生と死を超えた存在としてあらねばならないのだ。有無を越えるということは、人間において言えば、生死を越えるということである。この「超える」という概念でいうならば、生死はまた死生とも等しい。すなわち人生のベクトルが逆方向でも同じであることになる。通常迷いから覚りへと方向が定められているが、その覚りが有無を越えるとき、覚りから迷いの世界へ逆流する方向もあることを意味してくる。
したがって、最初の課題であった「覚りを〝滅び″のイメージの言辞を使う」理由として、有無を越えるということを実践的に表現されたものであるとの認識に到るわけである。少々補足するならば、覚りは限りなく無に近づきながら無に到らない、といういわばゼロ近傍のことである。
それともう一つ、それが「有無を越える」ということにおいて言うならば、もう一方で無限大に近づくということも併せて「有無を越える」となる。この二面性において、逆ベクトルが成り立つのだ。ここに「無上」と「涅槃」が並列されていることその言葉自体、無限大に近づくことと限りなく無に近づく両ベクトルをすでに表現しているではないか。
ここまでは、「有無を越える」という状況を述べてきた。しかし、〝越える″状況だけではその意味がない。その〝越える″主体がなければならないのだ。故に、この御自釈は、
無上涅槃はすなわちこれ無為法身なり
と〝身〟へと転釈されていく。その〝身″の上に真実の相を現していくのだ。そして遂に阿弥陀如来は「報・応・化種々の身」と実存的実体の身を出現させて来るのである。その事は、先に述べたように、阿弥陀の住持力という位置エネルギーから本願力という運動エネルギーへと転回していく様相に他ならない。
第二項 存在すべき場と行動原理
前述の『証巻』の文頭に
謹んで真実証を顕わさば、すなわちこれ利他円満の妙位、無上涅槃の極果なり。〈中略〉報・応・化種々の身を示し現わし(てくるという阿弥陀如来の空間なり)【出26】
と述べている。ここに〝位″と〝果″として述べている。〝位″とは現存在の場を顕す。〝果″は存在の行き着く場を顕す。これを時間的に言えば、現在と未来に於いての場である。未来に於いての場は現在においては方向になる。立つべき場は必要であるが、その場に立ってどっちの方向に歩むべきなのか、そのベクトルがなければ歩みは始まらない。
したがって真実証は、行き着く到達点ではなく、これから歩むべき立脚地と方向が定まるということを意味しているのである。さればその立脚地は利他円満でありその方向は無上涅槃と言うことになる。その方向は行動原理になってくる。なぜならば、それは自利であり存在欲求であるからである。そしてそこに立ちその方向に向かうというとき、身を置く場が利他円満では理に合わない。何故なら、無上涅槃に向かうそのことは自利そのものであるからである。どうしても自利でなければ無上涅槃に向かう意味にそぐわない。にもかかわらず、利他円満の〝位″である。だからこそ、それを〝妙位″として何か意味を含ませていると考えるしかないのである。
それならば、その時のその身とは一体どんな身なのだろうか。〝われ″という煩悩のままの凡夫の身か。利他の立脚と自利の方向は自利利他円満という菩薩の行ではないか。とするならば、この身は菩薩の身なのだろう。『証巻』では
しかれば阿弥陀如来は如より来生して、報・応・化種々の身を示し現わしたもうなり。
といわれる身はまさしく菩薩の身である。その身と〝われ″の煩悩具足の凡夫の身とどう関係するのか。菩薩とは言語的に言えば「菩提心を発した衆生」という意味である。いわば、人間が道を求めた姿である。ということは、たとえ凡夫の身であっても、道を求める心を発した者は菩薩なのである。
故に、〝われ″の上に「利他円満」の立脚地と「無上涅槃」という方向性が示されることによって、菩薩としての道の立脚地点と方向が定められていること意味してくる。菩薩においては、自らの涅槃より利他の行が優先される。とすれば、菩薩にとっては「無上涅槃」は方向よりもその逆方向の〝背景″として位置づけられなければならない。そして「利他円満」は立脚地というよりも〝行動原理″としての位置づけになってくるだろう。そしてそれが〝われ″にあたえられてくるならば、〝われ″において必要なものはただ一つ、「それを求める心」しかない。
それではその「発心」はどこから生じてくるのか。それは「利他教化地の利益」であると説かれる。そして、〝教化地″という〝地″はまた場へと導いていく。やはり、如来の種々の身が示現される以上、現実的場を持たなければ、それは空想的境地で終わってしまう。空想的な境地で救いを表現するならば、個々の心の持ちように留まる。それでは利益にならない。利益とは、もっと実体的でなければならないのだ。さすれば、如来の身が示現する場は、現実の苦悩の場に他ならない。
第三項 重層空間論
(一)我らは往相廻向の心行を獲ることによって大乗正定聚の数に入る空間を持つ。また如より来生して、報・応・化種々の身を示し現わしてくるという阿弥陀如来の空間がある。この二つは同空間なのか、それとも別空間なのか。少なくとも阿弥陀如来を感じられない以上、認識の上では我らの空間とは別空間である。
この事はすでに第一節にて触れてきたが、我らが認識する空間がある。自分が存在する場という一点からそれぞれの人間がそれぞれの方向へベクトルを放ち、その方向へ歩んでいくのが人生であると言うことについては誰も異論はないであろう。そして我らがベクトルは死あるいは滅という方向に向いていることも確かなことだ。しかしながらその存在場・立脚地に、ある意味を見いだしていくとき、そのベクトルの先の意味も変わってくるのである。いうなれば、自分の立脚地の意味によってそのベクトルの意味も、死は死でありながら意味は大きく変わっていく。
我ら人間は、生物的に雌雄によってこの世に生を受け、そして死んでいく、というベクトルは、現在までのところ絶対に曲げることは不可能である。しかし宗教はその生の立脚地において一つの意味を見いだすことによって、死は死のベクトルのままに意味を見いだして行こうとする。
そのことを証明するには、ただ自ら意味付けしただけでは虚しい。むしろ別のものによって意味づけされてこなければならないのだ。その別のものというのは、我らの生物的生死の空間に重層する別の空間によって意味付けされてくる以外にないということだ。すなわち「如より来生して、報・応・化種々の身を示し現わし」てくるという阿弥陀如来の重層空間が明らかになってくることによって、われらが生死の空間が、利他円満の妙位、畢竟寂滅の極果という逆ベクトルとなって示され得るのである。ある方向を持つ空間において認識できない空間が、それが逆のベクトルに転換されたとき、異相空間が初めて認識されてくる。それは、その二つの空間がもともと逆ベクトルであったことを意味する。その一方の空間のベクトルが転換することによって同じベクトルの方向になることによって、重層する二空間が融合する。すなわち言ってしまえば、これが宗教的パラレル・ワールドなのである。
もっとわかりやすい譬えをあげるならば、地球の海流のようなものであろう。海の表層には周知のごときいろんな海流がある。それを表層循環というが、しかしこの海の深海においてまた深層循環と呼ばれる大きな海流のうねりがある。その深層循環は我々には知ることは無理であるが、我々の表層循環の黒潮・親潮などに影響しているといわれている。まさにそれに譬えることができるであろう。
また仏教では、我々の生死空間を娑婆と呼び堪忍土といわれる。なぜ耐え忍ばなければならないのか。それは、真理と顛倒しているからであるということは既に明らかにしてきたところである。そのことは、いうなれば真理のベクトルと真逆のベクトルであるということだ。したがって、この娑婆においてベクトルを逆転すれば、真理と同位相になるのは当然のことである。
先に提唱していた「定聚とは何か」という課題に対して、明らかになってくるのは、それは、この現実という空間と重層する新ベクトルの存在場である。その存在場に立脚することが「正定聚に住する」ということになるであろう。
そしてまた、 大乗正定聚の数に入る空間と阿弥陀如来が来生して種々の身を示現してくる空間とが重層する。この重層空間が融合することを浄土という。それは我々には見えない。なぜなら我らの認識は正定聚に存在することと如来の示現とはひとつにならないからである。我々にあるのは、邪定聚と不定聚のみである。だから既に重層しているはずの空間が見えないのだ。それが融合する時は、我らの死が無上涅槃になる時だ。そこにおいてはじめて身もその場も一味であるということであり、身が場になり場が身である事を意味してくる。それを真実報土という。真実報土を真仏土というのは佛と土とが一つである事を意味する。そこに存在するということは、その場そのものがそのまま果となる。『文類聚鈔』に「証と言うは、利他円満の妙果なり」と述べられている。『教行信証』では「利他円満の妙位」と言われるが、『文類聚鈔』では「妙果」になる。親鸞は見事に因と果において展開しているのだ。因において利他円満が果にまで至る。すなわちすべて利他円満に尽きるということだ。
(二)かくして、第二の還相廻向が開かれていく。親鸞はこの還相回向を「利他教化地の益」と言い切る。往相回向に教・行・信・証があった。よって四つの卷が開かれてきた。
ところが、還相回向は、卷を改めることなく、『証巻』の中に説かれていく。まずもってこの意味を考えておく必要があるだろう。還相回向が『証巻』にあるということは、第二項において述べてきたように、往相回向の証すなわち必至滅度が還相回向すなわち「利他教化地の益」とかさなってくることを意味している。ここに以前より述べてきた二つのベクトルの交差が、ここにきて初めて、二つのベクトルが和合して、新たな方向を持つ一つのベクトルとなる、という意味が表されている。
このことを、親鸞は『論註』をもって「入出二門」として示してくる。この『論註』の引文は、「還相とは、かの土に生じ已りて」からはじまり、種々展開し、最後に
出第五門とは大慈悲をもって一切衆生を観察して、応化身を示して、生死の園、煩惱の林の中に回入して、神通に遊戯し、教化地に至る。本願力の回向をもってのゆえに。これを出第五門となづく【出27】
という『浄土論』の文を再度引き出して、それに注釈を加えている。その注釈している言葉は「示応化身」と「遊戯」と「本願力」の三点だ。ということは、曇鸞が重要視している点でもある。それでは、この三点に注釈を加えて何を言い表そうとしたのか。それを親鸞は、「還相の利益は、利他の正意を顕すなり」と結んでいる。すなわち、利他の正意は、普門示現であり、それが自在であり度無所度である、ということだ。
ところが、往相のところにおいて、既に「然れば、阿弥陀如来は如より来生して、報・応・化種々の身を示現したもう」と述べられ、還相においても普門示現が説かれている。前者は阿弥陀如来であるのに対して、後者の方はその主体は明記されていない。これは誰なのか。
これまで基点を異なる二点を設けて、そこから発するベクトルの交差で考えてきたのであるが、ここ還相回向の部分にきて基点を「門」という一点においてのベクトルを示してくる。すなわち、「入」は「門」に向かうベクトル。「出」は「門」から出るベクトルである。この構造が『証巻』の構造なのである。この「門」が表現するものは空間的なものだ。五念門に示されているように、その門から入ってそれぞれに修行し、それが終わるまでそこに留まる。そういう意味では空間的ではあるが、「門」そのものの機能的意味においては空間的ではない。いわばスイッチ的であり、同じベクトルの方向でありながら、その意味を転じていくスイッチなのだ。門は「門」という空間的建物に入って行こうとした瞬間、その空間的建物から出ることになってしまうのだ。まるで映画撮影現場のセットのように、お城に入ったかと思いきや裏通りに出てしまうみたいなものだ。実に面白い譬である事に感心する。
このことを通して考えれば、我々の存在は空間的であるが、そこにいつまでも常駐するのではなく、人生においてどこかで転換していかなければならない、ということを物語っているわけである。仏教の根本である諸行無常も、我々は年中流転している人生を思い浮かべるが、この苦悩の人生が〝常〟であったならこれこそ苦の中の苦ではないか。無常であるがゆえに転じていける事を思えば、諸行無常も救いの一つではないのか。
『真仏土巻』に「道に二種あり。一つには常、二つには無常なり。菩提の相に、また二種あり。一つには常、二つには無常なり。涅槃もまたしかなり。〈以下省略〉」【出28】と述べられている。ここに、道にも菩提にも涅槃にも常と無常が述べられているのは、一体どういう意味なのだろうか。我々は道を歩まんとしても、どうしても外れてしまうものだ。それを修正するためには無常であらねばならないのだろう。
そしてまた、かの涅槃の都に入ったとしても、願心のゆえに、生死の迷いの世界に舞い戻って衆生を教化し、共に仏道に向かえせしむる、ということも、無常であるがゆえにできるのであろう。
第四項 真宗利益論
現代の社会は利益追求の社会である。これは今に始まったわけではなく、古来より人間の欲求としてあった。ただ近代資本主義の世となってからは明確に利潤追求型になってきた事は明白である。この事については触れないが、同語の〝利益〟は、古くから宗教の〝ごりやく〟として人々に求められてきた。宗教の信仰に見返りが必要ということか。人類にとって利益を得る、得をする、幸せになるなどの有益な結果はをのぞむのは、むしろ本能なのかもしれない。人生論も科学も政治もほとんどが、自分、人間にとっての有益な結果を求めて展開されているのだろう。宗教もその一つであることは間違いない。
ここで少し「利益(りやく)」について考察してみたい。というのは、「還相回向と言うは、すなわちこれ利他教化地の益」ということを確かめたいからである。
仏教においては、利益と功徳がある。内容的にはかなり類似していることは、誰もが承知しているところであろう。ここでこれら二つの比較検討をやるということでないが、すこしそれらの特徴を確認しておくならば、利益は結果的であり功徳の方はよい結果をもたらすための行為として途中経過的である。そしてこれに付随して言えば、利益は結果的であるがゆえに固定的であり功徳の方は変動進展的である。利益が結果的であり固定的であるとするならば、得られた利益が到達点となる。
このことをふまえて見るならば、還相廻向というのは利他教化地の利益であるから、還相廻向は我々の結果的到達点となる。もっと言ってしまうならば、往相廻向は我々の功徳であり、還相廻向は我々の利益である、となるのではあるまいか。とするならば、往相廻向も如来の功徳であり、還相廻向も如来の利益である、と了解するのである。これはすなわち『証巻』往相廻向の末の部分に
それ真宗の教行信証を案ずれば、如来大悲回向の利益なり。かるがゆえに、もしは因もしは果、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまえるところにあらざることあることなし。因浄なるがゆえに、果また浄なり。知るべしとなり。【出29】
と述べられている。「真宗の教行信証」とは往相回向のことであり、これが「如来大悲回向」の利益である。本当ならば功徳になるのだろうが、往相に留まる人もいるから利益と述べられたのだろうと推察される。なぜならそれは第二十二願文によって考えることができるからだ。それに続いて〝因〟と〝果〟が述べられてくるが、これは上記に述べたように、往相回向と還相回向にほかならない。
さて、この還相廻向が阿弥陀如来の利益だとすれば、誰に対しての利益かといえば、当然阿弥陀如来を信仰する者への利益に他ならない。それは実に我々のことだ。我々が利他教化地に立つということを物語っているのだ。それがゆえにこの『証巻』還相廻向の文の最後に
大涅槃を証することは、願力回向に藉りてなり。還相の利益は利他の正意を顕すなり。
と結ばれている。この「利他の正意」とはその利他教化地にいる我らが証すべき事柄なのだろう。
もう一つ、『信巻』に「現生十種の益」【出30】が説かれている事についても触れておこう。これは「金剛の真心を獲得すれば」という条件のもとに、現生に十種の利益を獲る、というのであるが、この十種をみてみると、行動的態度をあらわす内容になっている。つまり「現生」という我々の生活圏内においての行動を意味しているわけである。とするならば、この十種が必ずそろわなければならない理由は全くないわけで、逆にそれ以外のものを利益と思ってもさほど問題はないであろう。むしろこれは「一心」を明確にするものであり、それらはすなわち「利他教化地」の利益に内在することを暗示しているのである。
それに続いて「真仏弟子」と「悲嘆述懐」が述べられてくるが、それも又「利他教化地」の利益に内在してくる。これらも又〝われ〟自身において「真仏弟子」であるなら利益ではないだろうが、実のところ〝仮〟の仏弟子であり〝偽〟の仏弟子でしかあり得ない我が身であるならば、その我等をば「真仏弟子」と迎え入れてくれるのは、利益というしかないのだ。それにこの「真」は仏弟子としての「真」ではない。仏の「真」、すなわち「真仏」のことなのだ。「真仏」とは何か。それは『真仏土巻』の「真仏」、阿弥陀仏の事である。とするならば、仏弟子としての資格が〝仮〟であっても〝偽〟であっても、浄土に往生して阿弥陀仏の弟子となり〝仮〟も〝偽〟も問われることはないのである。これは浄土に生まれるということにおいて、阿弥陀仏の「利他教化地」の利益にほかならない。
また「悲嘆」のこの身をそのまま引き受けてくれるとするならば、これまた利益という他にはない。過ちを犯し、何もできない〝われ″をば、そのままに利他教化の場に立たしめて頂くことは「利他教化地の益」以外に何があろうか。これこそが浄土真宗の御利益である。