第二章 黎明の教学 −『教行信証』−
第六節 場の認識論(方便化身土)
第一項 時代内存在としての“われ”
そもそも我々は、〝われ〟という意識の中に自分が経験した歴史と世界を保有し存在している。そしてその歴史と世界を認識しているがゆえに、それが真であるかのように錯覚する。それをなぜ錯覚と言えるかといえば、実存的に考えるに、真であると認識する歴史(時代)も世界(社会)も〝われ″の外にあり、その〝われ″の存在も歴史(時代)・世界(社会)の中の一現象に過ぎないからである。また〝われ″において真偽を問うものは認識しかない中で、その認識自身を疑うものがない限り、認識するままに是としてしまうのである。周知のとおり、錯覚というものは、同じ長さの直線を一方が長くもう一方が短く見えてしまうということがある。誰が見てもそう見える。そうすると長さが違うという認識が真となってしまう。それを錯覚と知るためには定規が必要になってくる。
今、〝われ″の存在の認識を考察していく上でどうしてもこの錯覚を見逃すわけにはいかないのだ。そういう意味においてどうしても「方便化身土」という時代・社会が開かれねばならない理由がそこにあると思う。
この『化身土巻』は、初めに
しかるに濁世の群萌、穢悪の含識、いまし九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入るといえども、真なる者ははなはだもって難く、実なる者ははなはだもって希なり。僞なるものははなはだもって多く、虚なる者は、はなはだもって滋し【出34】
と述べられている所から始まる。つまり、外道を出でて仏門に入っても真実なる者ははなはだ難しく、ほとんどは虚偽の者ばかりである、ということだ。このことは、「濁世の群萌、穢悪の含識」という言葉で我々を指摘しているところにその視点があるのではなかろうか。すなわち「濁世」とは末法五濁の時代に群がる我々を指示し、「穢悪」とは難治の三病を抱えている知的現代人の我らを指摘しているに違いない。
そういう意味では、この拙書そのものが「九十五種の外道」の語彙・言辞を利用し仏教の義を表現しようとしてきた、そのこと自身が問われていることでもある。そのことについては後に述べることになろう。
それではなぜ、仏教の法門に入っても真実なる者がほとんどいないのか。なぜ虚偽なる者が多いのか。親鸞はそんな我々に対して「濁世の道俗、善く自ら己が能を思量せよとなり」と述べられている。「能」とは力量・才能などのことであろう。とするならば「自分の力量を考えなさい。(あなたの力量では往生するのは無理であろう)」ということなのであろうか。あるいは、「自分の能力では往生できない程の深い意味があることを深く考えなさい」とも取れるような気もする。そうすると、浮かび上がってくるのは、「我々は濁世という時代を背負って生きる者」ということである。という事と同時に「穢悪を背負っている者」でもあることになる。
この「化身土」という『観経』の浄土は悪人往生ということが裏に願われている。それが釈迦のもとからの願いであった。釈迦は提婆達多と阿闍世の悪逆を背負ったのだ。それが「化身土」の説かれる根本の理由だった。したがって、この『化身土巻』には五逆と謗法、つまりは〝難治の三機〟の課題が根底に流れていたのである。そしてこのことと「濁世の群萌、穢悪の含識」とがリンクして我々自身が難治の三機として捉え直すところから展開されているという事を了解すべきなのではなかろうか。
この『化身土巻』において「至心発願の願」と「至心廻向の願」の二願が当てられている。この願名は親鸞の名付けであるが、『真仏土巻』においては仏自身の願であったが、これは「十方衆生」と我々に向けられた願だ。そういう意味において前項のそれとは質を異にする。つまりこの「化身土」は、我々と切っても切り離せないことが前提条件であることには間違いない。
そしてこの発願と回向の関係は我々にとって重要な課題として私はとらえている。いうなれば、発願が始まりで回向がその帰結する処だということだ。この二願で人間の生涯を示唆している。
初めは、この俗世の九十五種の邪道を出でて仏門に入るところから始まる。それが発願だ。ここで「群萌・含識」と言っているのは、世俗の一般人であり知識人の事であろう。そういう世俗から仏門への出発である。出発しようという意(こころ)である。まず発心がなければ始まらないことは言うまでもない。まずは思い立ってそして努力をして結果を得ようとする。これが前提条件である。この歩みを始めてそれぞれに三福九品の結果を顕す。しかしそれらは到達点ではない。したがって臨終の時まで修し続けなければならないのだ。故にこの願を「臨終現前の願」とよばれる。仏門を極めようとするのは限りがない。そのことを「心に依って勝行を起こせり、門八万四千に余れり」と述べられる。そしてその「門」というのは八万四千の仮門であり、「余」については本願一乗海である、と。言うなれば、本願一乗海は、八万四千の仏法をはみ出しているのだ。すなわち仏法でありながら、仏法からあふれ出ているのだ。ここに単に一面的ではない多面性の論理が成立してくる。その一つが顕彰隠密の義という、いわば表裏の関係において立体化している論理である。
八万四千の法門といえばいわば仏教全体だ。つまり佛教全体を学んでもまだ真実には届かないということになる。いうなれば、発心して仏道を歩んできた菩薩の死。その寿終わるときに臨んで、如來が現れる。これはちょうど七地から八地へと展開する〝十地思想〟と同じ意味を持つのではないか。なぜならば『十地経』に説かれることでいえば、七地においてもはや「上に求めるべき菩提もなく、下に救うべき衆生もない」という空の境地に到達してしまうのである。それを乗り越えて八地に至るためには大誓願と如來の受記が必要と説かれる。それは第十九願に願われる「臨寿終時に如来が現前される」と同義ではないか。そしてこの「上求菩提、下化衆生」の内実は、八万四千の全仏教をあふれ越えて九十五種の外道にまで逆流していく本願海を意味し、また救いがたい難治の三機を担うということであったのだろう。
現代社会に生きる我々においてみれば、多種多様の学問の中にも仏教精神に準じた論があり、それによって救われていった人が少なからずいることは事実である。したがって仏教以外は全て邪偽であるとは言えないことを意味していると感じられてくる。むしろ仏教書には眼も留められず他の書物に人々の眼が向けられている末法の現代を思えば、親鸞の
末法五濁の有情の 行証かなわぬときなれば
釈迦の遺法ことごとく 龍宮にいりたまいにき
という和讃もこの現実そのものの姿を言い当てているといえよう。
したがって、末法の世であるこの二十一世紀に存在する我々にとって、仏教経典全部を知る必要はなく、むしろ本願一乗海より流れ出ずる水の浸透した外道の書を探し当てることも十分に意味のあることではないか。そうでもしないと、末法の世に生きる我らはどこで真宗にたどり着くことができようか。まさに「仮令の誓願、良に由あるかな」である。
第二項 社会学的人間論
(一)さて、現代社会に生きる我々人間について、何をもって真実か、何をもって邪偽と判断していくのか。もっと突き詰めて言うならば、多種多様の学問・論説等において、何をもって真実か邪偽かを判別するのか、ということが大事な課題となってくる。
例えば自然科学において、真偽を問うのは実験によってである。実験で成功すればそれが真であることを証明する。しかし実験が不成功に終わった場合、これは必ずしも偽とはいえない。なぜならその実験の真偽を問わなければならないからである。
他の社会科学や哲学・論理学・史学・倫理学等等においてはそれ以上に困難であることは言うまでもない。
『化身土巻』は本願文の第十九願から第二十願へと展開していく。この第二十願は「不果遂者の願」と言われる。まさに絶対果たし遂げるという覚悟の本願である。そしてこの願に『阿弥陀経』を充当させている。『阿弥陀経』は、如來興出世の所以を「恒沙の諸仏の証護の正意、ただこれである」と親鸞は述べられている。それは何故か。親鸞は『散善義』を引用して「衆生の釈迦一仏の所説を信ぜざらんことを恐畏れて」十方の諸仏が誠実の言を説いた、と釈されている。まさに我ら現代人は釈迦の教えが信じられなくなった状況を、釈迦自身予感していたのであろう。しかし弟子たちはそういうことは予想だにしなかった。だからこの『阿弥陀経』は問う者がない「無問自説」と言われる所以である。それ故に、親鸞は釈迦を「四依弘経の大士」と呼んでいる。
この「四依」とは何か。これは釈迦が涅槃に入る時に説かれた四つの依り処である。親鸞は『智度論』を引用して
今日より法に依りて人に依らざるべし。義に依りて語に依らざるべし。智に依りて識に依らざるべし。了義経に依りて不了義に依らざるべし。【出35】
と述べられる。そしてその四依の解説が説かれた最後に「無仏世の衆生を、仏、これを重罪としたまえり、見仏の善根を種えざる人なり」と結んである。これはなにを意味するのか。考えるに、末法無仏の現代において、化身として仏がまします事を物語っている。ただ我らが見る善根がないだけなのだ。とするならば、現代の諸学諸説の中に仏法が説かれているものがあることも同時に意味している訳である。したがって親鸞は「しかれば末代の道俗、善く四依を知りて法を修すべきなり」と結ばれている。この四依については後に取り上げるが、この四依をより所に真偽を判別していく事を教示しているのである。
(二)誕生に胎生と化生があると説かれる。胎生というのは母胎より誕生するという身の誕生を表現し、対して化生は〝われ″という意識・精神の誕生に当てはまるであろう。しかし、身と意識・精神は本来ひとつのものであるからその誕生においても分けられるはずもない。にもかかわらず分けて表現されるのは、何を意味しているのだろうか。
『無量寿経』に「彼の天宮を捨てて、神を母胎に降す」と、釈迦が人間として誕生する姿を述べた表現がある。〝神〟とは精神のことであろう。とするならば、人間というのは精神を胎宮に閉ざしているものということになる。精神を閉ざしているあり方から精神を解放されたあり方へと転換されていくということが覚りであるとを物語るものなのか。そうであれば、浄土に生まれることにおいても、その浄土に胎生・化生があることは何を意味するのか。
私の人生においてどうにもやりきれないことがある。我が子を失ったことがその一つである。即得往生が説かれていても、それに頷けず、思い出と後悔だけが毎日の日課のごとく我を引きずり回す。金鎖とは幸せだった頃の思い出なのか、胎宮とは我が子の死を受け入れられない現実逃避なのか。聖人のみ教えを心に留めながらもおぼつかず、懈怠の境遇におぼれるばかり。しかしながらこんな私には、胎宮という言葉も安らぎに聞こえる。
人にはすぐさま救われなければならない時がある。また、人には時間をかけなければ救えないことがある。五百年の間目を塞ぎ心を閉ざし、膝を抱えて蹲っている我。これを「苦」というならば、それは如来の苦であろう。この我は事実上目を塞ぎ心を閉ざすことによって苦から逃れているのだから。この我が苦から逃げている間、如来が苦を引き受けていてくれる、勿体なくも等価交換の原理にほかならない。
この如来の苦悩は果遂の願に顕わされているではないか。「果遂の誓い、良に由あることかな」と。誠に、勿体なくもかたじけない。
第三項 安樂あるいは楽の概念
前項において「四依」に触れたが、これについて少し確かめておく必要がある。まず、もう一度詳しく引用してみよう。これは親鸞が『化身土巻(本)』に『智度論』からの引用文をそのまま引用しよう。
『大論』に四依を釈して云く、涅槃に入りなんとせし時、もろもろの比丘に語りたまわく「今日より法に依りて人に依らざるべし、義に依りて語に依らざるべし、智に依りて識に依らざるべし、了義経に依りて不了義に依らざるべし」と。
「法に依る」とは、法に十二部あり。この法に随うべし、人に随うべからず。「義に依る」とは義の中に好悪・罪福・虚実を諍うことなし。かるがゆえに語はすでに義を得たり、義は語にあらざるなり。人、指をもって月を指う、もって我を示唆す、指を看視して月を視ざるがごとし。人語りて言わん、「我指をもって月を指う、汝をしてこれを知らしむ、汝何ぞ指を看て月を視ざるや」と。これまたかくのごとし。語は義の指とす、語は義にあらざるなり・これをもってのゆえに、語に依るべからず。「依智」とは、智はよく善悪を籌量し分別す。識は常に楽を求む、正要に入らず、このゆえに「不応依識」と言えり。
ここに「識は常に楽を求む」と語られている。されば我々が浄土を求めることが楽を求めている事であるならば、識に依っている事になる。この『化身土』において「識に依らざるべし」と言われてくることは、欣求浄土は、楽を求めることになってはならぬ、ということを意味してくる。そのことは、智に依って浄土を求めるべし、と言うことになってくる。「智に依る」というのは、「よく善悪を籌量し分別す」ということだ。すなわちそこには真偽決判ということも含まれてくる。まさに人間の歩みは識に依る〝楽〟のみを追求してきた歴史だったのだろう。その生き方の真偽を問わず、ただ楽になることだけを追求し、やがてマネーなるものが生まれそれによって、人間の〝楽〟が支配されるようになってくるのだ。
この四依を見る限り、浄土を求めるのは、楽を求めるためではなく、善悪を籌量し分別するため、という意味なのだ。そうなると、そこに〝楽〟はなく、我ら苦悩の群生はどこに救いを見いだせばいいのか。我々は抜苦与楽の教法をどう理解すべきなのだろうか。
この抜苦与楽は、少なくとも抜苦がイコール与楽ではない。もしそうならば、抜苦即楽にならなければならないだろう。しかし我々はそのような誤解をもっているような懸念がある。苦さえ抜けば楽になる、と。
ここで『真仏土巻』を見てみるに、大涅槃を四楽をもって説かれている。その部分を引用すると、
何等をか四とする。一つには諸楽を断ずるがゆえに。楽を断ぜざるは、すなわち名づけて 苦とす。もし苦あらば大楽と名づけず。〈以下省略〉二つには大寂静のゆえに名づけて大楽 とす。〈以下省略〉三つには一切智のゆえに名づけて大楽とす。〈以下省略〉四つには身不 壊のゆえに名づけて大楽とす。【出36】
と説かれている。この第一番に「諸楽を断ずる」と述べられている。それはなぜか、と言えば、同じ所に、「凡夫の楽は無常敗壞なり。このゆえに無楽なり」と述べられる。すなわち我々の求める楽というものは、すぐに移り変わり、あるいはその楽が破れ壊されたりするものである、と言うことである。そうすればすぐさま楽が苦に転じてしまう。そして第三の「一切智のゆえに名づけて大楽とす」との二つを鑑みるに、先に述べた四依の「智によって識に依らざるべし」と相応しているのである。
すなわち、我々凡夫の求める楽を極楽浄土への延長線上に置くべきではない事を示しているのである。ということは凡夫が認識する楽を転換し、新たな大楽を求めるべき事を示唆するものであろう。それが化身土から真仏土へ転入していく契機の一つになるのである。
この二十一世紀まで、我々人類は凡夫認識の楽を追い求め、それが時には破戒されたり人間に苦悩を与えることとなったりしていながらも、人類はそれを断ずる事なく、手を変え品を変えながら何とかしようとしながら今日に至っている。そのため人間に苦を与える負の遺産は膨大にふくれあがってきているのも人類は気づいている。それでも未だに人類の識に依っている限り解決はないのも事実であろう。
先に序章の時間論のところで触れたように、近代というのは、時間と空間と資本の三要素をもっておおよその国々の人々の〝楽〟の概念が形成されている。この近代という文明は、時間の短縮化、空間の広がり化、そして資本の拡大化によって〝楽〟観を得てきている。あるいはそれを追い求めてきている。そしてそのために科学技術が発展してきたといって過言ではないであろう。それを国家的に「先進国」と呼び「第三国(後進国)」と読んできた。しかし、〝楽〟観と幸福感とは別物であろう。
仏教の根源は、諸行無常と諸法無我という自然の道理に置いて、我々人類の存在として一切皆苦であることから涅槃寂静へと転入していく人生論であった。この根本課題を担いながら浄土教は発展してきた。要するにそれは苦悩の凡夫が安楽の浄土へ生まれる道しるべだったのだ。
しかし人類は、識を持ったがゆえに凡夫の求める楽を改良し新たな楽を人間に示し求めさせてきた。そしてその都度苦悩も吹き出してきたりもしていた。
人類にとって、楽を求めることは宿命なのかもしれない。ならば、本当の楽、大楽を求めていくる方が本来的でないのか。
そのために我々は知らねばならない、智に依るべき事を。
第四項 社会学的思想論
(一)『化身土巻』において、我々は何を明らかにしようとするのか。それはいうまでもなく「化身土」と言われる方便の淨土の存在意義である。本来は「真実報土」に生まれるべきところを、なぜ「方便化身土」に生まれなければならないのか。それはすでに第一項において明らかにしたように、真実なることが困難だからである。それでは、何故困難なのか、と言えば、真偽が分別できないからである。
したがって、この「化身土」の主旨は信偽決判にある。しかしながら、内容は決判ではなく“教誡”と親鸞はいう。ここに「化身土」であることの存在意義がある。この書の文でいえば「四依弘経の大士、三朝浄土の宗師、真宗念仏を開きて濁世の邪偽を導く」というところに要旨があったのだ。すなわち我々は邪偽の殻を脱ぎ捨て、真実の本体に目覚めていかなければならないのだ。
かるがゆえに親鸞は「末代の道俗、善く四依を知りて法を修すべきなり」と我々に示唆を与えておられる。その四依は、先に紹介したが、ここで詳しく見ておかなければならない。
先に述べた引用文をすこし見てみよう。
「法に依る」とは、法に十二部あり。この法に随うべし、人に随うべからず。「義に依る」とは、義の中に好悪・罪福・虚実を諍うことなし。かるがゆえに語はすでに義を得たり、義は語にあらざるなり。人、指をもって月を指(おし)う、もって我を示教す、指を看視して月を視ざるがごとし。人語りて言わん、「我指(ゆび)をもって月を指(おし)う、汝をしてこれを知らしむ、汝何ぞ指(ゆび)を視て月を視ざるや」と。これまたかくのごとし。語は義の指(ゆび)とす、語は義にあらざるなり。これをもってのゆえに、語に依るべからず。「依智」とは、智はよく籌量し分別す。識は常に楽を求む、正要に入らず、このゆえに「不応依識」と言えり。「依了義経」とは、一切智人います、仏第一なり。一切諸経書の中に仏法第一なり。一切衆の中に比丘僧第一なり。無仏世の衆生を、仏、これを重罪としたまえり、見仏の善根を種えざる人なり、と。已上
と、ここまで引用されている。この文の意とすることは何であろうか。
ここに「了義経」とあるその内容は、前三つで言い表られている。すなわち我々が「了義経に依る」事の相を前三つで言い表しているのだ。それを言ってしまえば、仏法に依るということは、ただ経典に捕らわれるのではなく、いろんな書物の中においてもその意図することを、正しき智をもって分別すべきである、ということを我々に教示しているのであろう。
それでは、我々がその正しき智を持ち得るのか、という問題に遭遇する。仏教に入っても邪偽ばかりで真実はほとんどない、といった状況に存在する我々が、どのようにして智に依るのか。そうすると、引用文では、「依了義経とは、一切智人います、仏第一なり。」という。また、「一切諸経書の中に仏法第一なり。」ともいわれる。つまり、仏を第一とする智人たちがいて、仏法を第一とする諸経の書がある、というのである。そして最後にこの現代、無仏の世において、仏が見えないのは重罪である、と締め括っている。換言すれば、無仏の世といわれる現代においても仏は存在していることを意味している訳である事は前にも述べたとおりである。あまりにも大胆な論理ではないか。しかしながらそのことは、第四節の『証巻』において述べてきた「然れば阿弥陀如来は如より来生して、報・応・化種々の身を示し現わしたもうなり」とつながってくるのである。
とするならば、我々は仏に出会い、仏法の精神をもって書かれた書物に巡り合っていくことが、邪偽をすてて真実に目覚めていく道であるということになろう。しかし親鸞はそこには留まらない。釋尊以来浄土教の祖師はひとえに「真宗念仏を開きて、濁世の邪偽を導く」事を最終目的としていると考えているのだ。そのために、まずもって「邪偽・異執の外教を教誡す」し、そして次に「外教・邪偽の異執を教誡」するという論理を展開する。
(二)最初の「真仮を顕開して、邪偽・異執の外教を教誡する」ということを、まずもって理解を深めなければならない。この「真仮」とは真の仏土と仮の仏土である。つまり『真仏土卷』と『化身土巻』によって明らかにされてきた仏土の事である。この中でとりわけ大事なのは化身土である。この化身土が開かれるのは「九十五種の邪道を出でて」仏門に入っても真実ははなはだ少なく、虚偽なるものははなはだ多い、と言う文から始まる。外教を邪道と押さえながら、そこから離れて仏門に入ってもなおかつ邪偽が多い、と説いている。
それならば、どっちも一緒ではないか、となってくる。どっちも一緒だったら外教でもいいんじゃないか、という発想になることを異執というのではないか。この邪偽と異執をもった外教を教戒するために自らの仏教を批判し、その上で両方含めた一切群生海を誘引し教化されていく道が説かれているのであると考える。それがゆえに衆生の認識範疇における浄土表現になっているのであろう。これが一番目の「邪偽異執の外教の教誡」と思うのである。
(三)次に「真偽を勘決して外教邪偽の異執を教誡せば」と言うことを考えてみよう。これをどう読むか。一つは外教と邪偽の異執を教誡する、と読める。もう一つは外教における邪偽の異執を教誡する、とも読める。前者は外教と仏教の邪偽の二つまとめてその異執を教誡するということだ。後者は外教の中にある邪偽が囚われている異執を教誡するということ。とするならば、外教に真と偽があることを物語っている。その外教にある邪偽の異執を教誡するのである。ならば、真の外教は、どうなのか。
『同巻』(本)においては「如来涅槃の時代を勘決して正・像・末法の旨際を開示」するといわれている。現代は周知のごとく末法時代に位置する。この時に当たり仏法はことごとく滅している法滅と説かれる。この現代において余の学問は多種多様にある。それらの真偽を勘決して、真の学問には耳を傾けなければならないのではないか。しかしながら、それに固執していくと邪偽の異執になる。また『同巻』(本)に「門余と言うは、門はすなわち八万四千の仮門なり、余はすなわち本願一乗海なり」と説く。前に述べたように、本願は仏教からあふれ出たところにあるのだ。
極論をいえば、もうすでに龍宮に閉ざされてしまった仏教教義に成り代わって外教がその役目を果たす、ということを示しているのだ。そのことは前記で述べた四依の中に「一切諸経書の中に仏法第一なり」と言う言葉によって明らかにされているではないか。
したがって、その外教は現実社会の認識から生成されてきた思想であり、現実という場において働いてくる。これを方便という。思想というものはすでに方便であるのだ。なぜなら、真実を背景として現実に働いてくる方法論を思想というのであるからである。