第三章 “われ”と“なんじ”
軍備に関してよく「外国が攻めてきたらどうするんだ。」という仮説のもとに軍備拡張を力説するが、国それ自身が攻めてくることは絶対にない。あるとするならば、大陸移動によって衝突する造山運動ぐらいのことだ。不動の国土が攻めてくることもあり得ないし、武器自身も攻めてくることもない。攻めてくるのは人間なのだ。どんな最強の武器があっても操作する人間がいなければ、微塵だにとも動きはしない。また人間は、矢じりをもって鉄砲隊に戦いを挑むこともある。時に支配者は、従属者に対して服従より死を選ばさせることもある。したがって侵略を止めるのはそれ以上の武器を作って武器を押し留めることではなく、武器を操作する人間を止めることしかないことは、必然的であり、それにいち早く気づくべきであろう。
武器を操作する人間も殺戮を武器のせいにしてはならない。自分の心が殺戮していることを自覚しなければならないのだ。それがたとえ国・組織の命令であっても、命令を聞き入れた時点で自分が人を殺戮しているのだ。殺戮に向かってくる相手は外国でも武器でもなく、他者という人間であり、迎え撃つこちらも日本でも武器でもなく、相手という人間を全く知らない私自身なのである。
実に社会を動かしているのは、〝われ″と〝なんじ〟の関係においてである。〝われ″と〝なんじ〟の関係の微々たる動きが重なり合ったり反発しあったりしながら、干渉しあってうねりとなって社会を構成していく。だから、どんなに強硬な武器のパレードなんかに驚くことはない。むしろ、注意すべきことは、〝われ″と〝なんじ〟との関係がどのようになっているか、あるいは無関係であることに無関心になってはいないかということである。
先に、〝われ″の所在の原点を見てきたように、ここでその〝われ″それ自身とはいったい何者であるのかということを“苦に喘ぐ者”と捉えてきた。これが〝われ″の出発であった。しかし、〝われ″の苦悩を考えるとき、どうしても他者との関係を抜きにしては考えられないし、その〝われ″と〝なんじ〟の苦の喘ぎが互いにいがみ合わせることもある。しかしてこの章において、〝われ″と〝なんじ〟の存在とその関係について考察しておかなければならないのである。