第三章 “われ”と“なんじ”
第一節 “われ”の中に
第一項 内なる”なんじ”
「忘我」状態を経験されたことがあるだろうか。あるいは無我夢中の状態とでもいえばいいのだろうか、考えるより先に行動してしまっているようなことが一二度は誰しも経験しているだろう。この事を、「単なる条件反射だ」という人もあるが、たしかに反応として条件反射なのであろうが、その反射は自分に都合が良いように、あるいは自分を防衛するように反応する。とするならば、そこに自己防衛の意志が働いていないとは言えないであろう。何らかの意志なるものがあるとすれば、そこに〝われ″”が存在する。
それでは、そのとき自分の意識よりも先行して行動してしまっている〝われ″とはいったい誰か。無意識行動において〝われ″の意識がない以上〝われ″とは呼べない。普通一般的に〝われ″というのは、肉体を持ち意識的行動をしている〝われ″である。そして時折、その〝われ″の姿や行動を批判してくるもう一人の〝われ″がいる。この者はいったい誰か。〝われ″において〝われ″以外のものであることには違いないが、さりとて〝なんじ〟でもない。これを「内なる〝なんじ〟」と呼んでおこう。
さて、ここで問題にしようとする〝われ″は、常住に意識している〝われ″ではなく、ある時突然に現れ、〝われ″に先だって行動したり、あるいは突然にひらめいたりする〝われ″である。それらは、相としての〝われ″であり、他との関係現象であるから、そういう〝われ″を認識するのはその事後のことになってしまう。そんな浮遊的自我意識を〝われ″としうるであろうか。もしそうすれば、通常の〝われ″と神出鬼没の〝われ″の二人の〝われ″が存在すると言う自己内矛盾が生じる。したがって、同時に二者を〝われ″と呼ぶわけにはいかない。これから、その神出鬼没なる〝われ″を考察していく上において、それを名づけるならば「内なる〝なんじ〟」という名がより相応しい。
第二項 他者なる“われ”
(一)〝われ″以前に存在する〝われ″。これは〝われ″という意識以前の〝われ″である。それは全く意識以前であるから、〝われ″以外のものである。したがって言うならば、〝われ″の中に存在する他者なのである。他者は〝われ″の外にばかりあるのではない。また、他者は外にあっても全く無縁・無関係にあるものでもない。そういう意味において他者が〝われ″の中に存在していてもちっとも不思議ではない。そういう意味において「内なる〝なんじ〟」となづけた。
そうすると、今「内なる」という範疇の〝われ″はどういう範囲をもつものであろうか。第一に想定されることは、一個の個体としての範疇である。この一個の個体の中に条件反射の“われ”と意識の〝われ″が内在する、と言う説明で容易に納得できる。それでは、ゾウリムシなどの原始細胞をみてみよう。これにはいうまでもなく条件反射はある。では、意識あるいは意志のようなものがあるのかどうか。そうすると、環境条件の良い方へ繊毛運動で移動するといわれている。これは一つの意志とも考えられるのではないか。そうなるともうひとつの疑問が浮き出してくる。このような単細胞の中に、環境条件を判断する意志らしきものの所在する器官があるのだろうか、という疑問である。もしそういう器官がないとするならば、そういう意志らしきものは、どこから派生してくるのだろうか。
(二)仏教に「一切衆生悉有仏性」と言う言葉がある。これまで如来の還相回向のベクトルが我々の往相廻向との交差の現象を追求してきたが、その還相廻向ベクトルの始点に「仏性」を置いたらどうだろうか。言い換えるならば、阿弥陀如来の本願力が回向していく基点として〝われ″の中にある「仏性」がその役を担っていると考えることはできないだろうか、という課題なのである。
その為にまず確認しておかなければならないことがある。それは、まれに現れる条件反射的〝われ″とイコールとしての「仏性」なのか、と言うこと。それはイコールで結ぶ必要ではない。むしろ、〝われ″という意識の〝われ″以外のものという包含的な〝われ″であってかまわない。次に「仏性」は現れては消え、消えては現れる不確定性なものなのか、それとも普遍的恒常性なものなのか。これについて『真仏土巻』において
迦葉菩薩言わく、「世尊、仏性は常なり、なお虚空のごとし。なにがゆえぞ、如来説きて未来と言うやと。如来、もし一闡提の輩善法なしと言わば、一闡提の輩、それ同学・同師・父母・親族・妻子において、あに当に愛念の心を生ぜざるべきや。もし生ぜば、これ善にあらずや」と。【出37】
と、迦葉菩薩は問いをたてる。この問いは大切な問いであり、一闡提救済の根拠ともなってくる課題なのである。何はともあれ、世尊は「仏性は常でありながら、仏性未来をとくのか」という問いである。この問いに対して
仏の言わく、「善いかな、善いかな、善男子、快くこの問を発せり。仏性はなお虚空のごとし。過去にあらず、未来にあらず、現在にあらず。一切衆生に三種の身あり、いわゆる過去・未来・現在なり。衆生、未来に清浄の身を具足荘厳して、仏性を見ることを得ん。このゆえに我、仏性未来と言えり」と
と応えられている。ここからして、仏性は普遍であっても我々にとっては現在に全く認識されずとも、未来には認識されると言うことがあるのだ、ということになる。そして行き着くところ、如来の「知諸根力」をもって、「犯四重禁、作五逆罪、一闡提等みな仏性ありと言うことあり」と言い切るわけである。要するに、我々衆生から見ると仏性は全く見えなくとも、仏性は普遍的であり、それは如来の諸根を知る力によってしられるのである、とされるのである。
因みに、如来はなぜ一切衆生を救わんとするのか。それは如来の知諸根力によって一切衆生悉有仏性であることを知っているからである。仏性あることを知っていながら、見捨てることは、「仏性はすなわちこれ如来なり」ということにより、如来自身を見捨てることになる。如来の自滅にほかならない。ここに如来救済の原理がある。
(三)仏性とは何か。それは如来の種が〝われ″の中に宿っている、ということだ。如来が仏性である以上、仏性は〝われ″ではない、他者なのである。しかし単なる他者ではない。やがて仏性は、〝われ″の中で息づき〝われ″となって如来を成就していく。したがって、他者なる仏性は、〝われ″なのである。