第三章 “われ”と“なんじ”
第二節 “われ”の存るべき處
釈尊は言われた。
吾今もろもろの衆生のためにこの経法を説きて、無量寿佛およびその国土の一切所有を見せしむ。当に為すべきところの者はみなこれを求むべし。我が滅度の後をもってまた疑惑を生ずることを得ることなかれ。
当来の世に経道滅尽せんに、我慈悲哀愍をもって特にこの経を留めて止住すること百歳せん。
それ衆生ありてこの経に値う者は、意の所願に随いてみな得度すべし。【出38】
と。「当来の世に経道滅尽せん」という危機感は、われわれにしてみれば、仏教の破滅・寺院の崩壊を示唆している。我々の社会は、まさに仏教を必要とはせずにイデオロギーに頼り、寺院に寄り付こうとせず、公共空間に寄り集まっていく。それに対し各僧侶たちは、ただ嘆くだけでその対策さえ浮かばない。そしてそれぞれが口癖のように「この寺も私の代で終わりだ」と愚痴をこぼす。「滅尽」とは経道が滅ぶことではない。経道が必要とされないところに「滅尽」があるのだ。
しかし、釈尊は立ち上がった。「この経を留めて止住すること百歳せん」とは自分の全生涯を賭けるという決意であろう。これはすでに菩提心である。菩提心とは、やれることをやるというのではない。やむに已まれぬ情熱が心に沸き起こることなのである。その時の〝われ″は我一人の〝われ″であり、誰かと共にという〝われ″ではない。
あるいは、「私の後を誰かに引き継いでほしい」というひ弱な心もない。そのひ弱さは、自分のバックボーンを求める心であり、同時に自分の行動を認めてほしいという自己の不安定さに他ならないのである。立ち上がる菩提心の根底にあるのは「経道滅尽」ということなのだ。それを「私一代において留めて止住する」ということだけなのだ。同じように親鸞においては、「禿」の一字に立ち上がった。
経道は、仏教は、寺院は、誰かのためにあるのではない。自分の人生にそれがあることが重要なのだ。しかしそのことは決してエゴイズム的ではない。なぜなら〝われ″は我のみが“われ”に非ず。〝なんじ〟もまた内なる“なんじ”なのだから。またそのことは人ごとにあらず。〝なんじ〟はただ〝なんじ〟に留まらず、他者なる〝われ″にもなるのだから。親鸞が立ち上がった「禿」の一字は、〝われら〟という一言にその意味を凝縮させている。
釈尊は、「この経に値う者は」という。「値う」というのは偶然でもなければ必然でもない。それは会うべくして会うことなのだ。なぜなら〝われ″と〝なんじ〟は決して絶縁状態ではないからである。ただ「留めて止住すること百歳せん」というところに「値う」ということが成立する。
このような親鸞時代における法難の事象を「経道滅尽」と「この経を留めて止住すること」の二つの内容を言い当てているのだ。あまりにも見事ではないか。
親鸞は、この箴言を「聖道の諸教は行証久しく廃れ、浄土の真宗は証道いま盛なり」という言葉で受け止めていると、私は考えている。このことを私的に言い換えれば、
[聖道の諸教は]これまで人間の道として大事にされてきた自己変革・自己完成の道は、[行証久しく廃れ]いつしかその目的を忘れその意義さえも失ってしまった。さればこそ[浄土の真宗は]求めなければならない本当の道は、[証道いま盛なり]いかなる人々もそのままに、自らの方向性を発見しあるいは方向転換の促しに出会い、その方向に歩み出していく時、いつしかその道によって力が与えられ、それらしい人間に変革されていく。それが 盛んに求められている道なのである。
と了解している。
そして「この経に値う者は」ということを法然との出会いに重ねている。言ってしまえば、この『後序』は『大経』の「流通分」に相応しているのである。したがって、親鸞にとっての『後序』は、「自分の一生はここにある」という頷き、あるいは決意であろう。それは言うまでもなく親鸞の上に発起された浄土真宗の流通分に他ならないのである。
最後に当たり、登場人物をすべて敬語をつけないで呼んできたが、決して軽々しく思っているわけではなく、これらの方々は私を導いてくださった師でもあるから、むしろ深く敬意を表している。にもかかわらず敬語をつけなかった理由は、敬語を選ぶことができなかったことが最大の理由だ。時には親しみを覚える友であったり、また畏敬の念を抱く師匠であったり、それぞれの方々と私の関係は、それぞれに異なるからだ。また、人々はすべて、私の師でない人はないと思って生きていきたいという事も付随される理由になろう。
『教行信証』の最後に『安楽集』の文を引用され、
真言を採り集めて、往益を助修せしむ。何となれば、前に生まれん者は後を導き、後に生まれん者は前を訪え、連続無窮にして、願わくは休止せざらしめんと欲す。無辺の生死海を尽くさんがためのゆえなり【出39】
と述べられている。その「後に生まれん者は」の「者」に「ひと」と送り仮名をつけられているところから考えると、これを書かれた親鸞からみれば、その「ひと」は我々を指すのだろう。われわれに向かって「この書に問い尋ねよ」と。なぜなら、この書は「真言を採り集めて、往益を助修せしむ」のだから。
そしてその後『華厳経』の文をひいて
もし菩薩、種々の行を修行するを見て、善・不善の心を起こすことありとも、菩薩みな摂取せん、と。
と結ばれている。菩薩が修行する我々の姿を見て、その我々の中に善の心を起こす者がいても、また不善の心を起こす者がいたとしても、菩薩は、そのどちらも摂取するのだ。これが宗教性だ。何人をも排除してはならないのだ。ただ一人をも排除するならば、真の宗教ではない。こう結ばれている。