最終章 二十一世紀の世界へ
(一)これまで、親鸞に憧れ、『教行信証』において、親鸞に出遭ってきた。そしてこの二十一世紀に親鸞は何を語るのかを、問い訪ねてきた。しかし、それを問い訪ねる我らが、二十一世紀に立っているのか、という課題が最後に残されている。それはとりもなおさず、二十一世紀とはどういう世界なのか、という認識を明確にしなければならない課題なのである。
ここで、二十一世紀の基本要素を次の三つの革命で言い表すことができる。
① ⅠT(インフォメーション・テクノロジー)
② BT(バイオ・テクノロジー)
③ FT(ファイナンス・テクノロジー)
この三つの革命によって、社会構造がこれまでの歴史的な構造とは全く異なる文明が作られようとしているとみるべきであろう。言うなれば、ⅠT革命によって社会の構造が変わり、BT革命によって人間の構造あるいは生命そのものが変わり、FT革命によって経済の構造あるいは人間の生活構造が、ガラッと変わっていくに違いない。ⅠTについては、もはやその兆候が出始めているし、またBTにおいては動物実験での成功を収めているが、人体においてはまだ倫理規制がかかっている状態である。しかし、人間の不老長寿願望は、現在露骨に表れてきているし、やがて悪人を善人にする脳内改造も不可能ではないのだ。また、子供も親の望むような赤ちゃんを生み出すことも為されていくに違いない。
FTによって、これまでの人間の労働の意味も失い、人間の新たな生きる意味が見いだされていかなければならなくなる。しかも人間の寿命は限りなく長くなり、それだけ膨大な人生論を描かなければならなくなるだろう。あるいは逆に死ぬ権利をもとめる運動も起こるかもしれない。
何か妄想的想像かもしれないが、全くありえないことではなく、そういう時代が忍び寄って来ている気配を感じるだろう。想像通りではないにしても、我々が生きてきた社会とはかけ離れた時代社会がやってくることは疑いのないことである。
そしてそういう時代において、果たして宗教は必要とされていくのであろうか、そのことも考えていかなければならない課題でもある。
(二)元来、宗教というものは、聖性と俗性の関係において、俗性なる人間側が聖性なるものに身を委ね依存し願いを託していく構造を持っている。あるいは仏教のごとき修行的宗教などは、俗性から聖性へと進化していく構造もあるが、それらのどちらも俗性から聖性へというベクトルであることに違いはない。
それに対して、浄土真宗においては聖性から俗性へというベクトルを持つ。その一つが、如來から衆生への救済の方向。もう一つが、親鸞の生き様に見られる僧から俗へ、そして俗なる一般民衆から底辺の民衆へ、という方向の構造が浄土真宗のベクトルなのである。ここにおいて、如來のベクトルと我ら衆生のベクトルと、共に聖性から俗性へという同一方向のベクトルであることが浄土真宗の特性なのである。
やがて、フリードリヒ・ニーチェの「神は死んだ」という象徴的言葉によって、いわゆる聖性なるものは全て虚構であるとして、これまで保ってきた聖性に対する価値観が崩壊されていき、ただ、俗性である人間の現実のみが残されることとなっていくのである。したがって、ここから、世俗的ヒューマニズムが生まれてくる。これが近代化の礎になっていると思えるのである。このことと浄土真宗との相違は、俗性に帰着している点は同じであるが、ベクトルを持たないことにある。そしてそのことの意味は、俗性であったはずの人間が、比較する聖性を失うことによってその俗性という性質もまた失ってしまうということである。こうして人間至上主義が生まれてくる。
そしてそれに追い打ちをかけるがごとく、進化生物学者リチャード・ドーキンスは『神は妄想である』という著書をもって、集団的な妄想と宗教を批判し、宗教がなくても人間は道徳的行動はするものだ、と考えている。この人は〝クローン羊〟の事に関しても肯定的発言をされている人である。まさに現代の科学と宗教に関する発言の大きさから、現代に多大な影響力を及ぼしていることは言うまでもない。
我々人間は、現在の環境において物事を思考しているが、この先突如として地球環境が変わって生命の危機にもおよぶ時、人体改造なども余儀なくされることも起こりうるのである。そう考えると人類の進んでいくベクトルが変わっていくな必然である。全ては因縁によって変わっていく、とは仏教の根本定理であった。
(三)浄土真宗において、〝聖道〟と〝浄土〟が相対する。すなわち〝聖〟に対して〝浄〟を説くのである。このことは問題にする対象が違うということだ。〝聖〟と〝俗〟とはその対象は人間に対して言う言葉だ。それに対して〝浄〟と〝穢〟というのは環境・世界に対する言葉である。それを混乱して使ってきた我々の失点があったのだ。〝聖なるもの〟と言うことができるが〝聖なる地〟と言うことはできないのではないか。また、〝穢れた地・穢れた観境〟とは言えても〝穢れた人〟とは言えないのではないか。このような間違った使い方をしてきたところに宗教の過ちがあったんだろうと、私は考えている。
したがって、浄土真宗は環境・世界を課題とする宗教である。しかしながらその観境・世界は、全く人間を除外した観境・世界ではない。当然人間や動植物、生きとし生けるものすべてを内在したところの観境・世界を言う。何故なら、それらが縁起の法の根本素材だからだ。すべてそれらが影響しあって出来上がったり壊れていったりするのである。
よって、前述の三革命によって人間たちの思想に影響しあいながら、時代社会の世論が大きなうねりを生み出していくこともあり得るのである。そのことは、宗教が消え去っていくということもないとは言えないということである。
(四)最後に、この言葉で締めくくりたい。
依了義経とは、一切智人います、仏第一なり。一切諸経書の中に仏法第一なり。一切衆の中に比丘僧第一なり。
無仏世の衆生を、仏、これを重罪としたまえり、見仏の善根を種えざる人なり、と。
これは、たとえ無仏・無仏法・無僧の時代にいたとしても、どんな時代においても、仏・仏法・僧はかならず居るものだ。それに気づかないのは、その人の見る目がないからである。そのことは重大な罪ですよ、と。これを言い換えるならば、この末法の世と言われる現代において、釈尊のような人格的でもない形で、人類にとって本当に尊い事柄、人間の良心に問いかける事象そのことを〝仏〟と呼ぶのではないか。また、あらゆる書籍やネットなどの情報の中に、人間の魂を揺り動かしてくる言辞や映像等があるとするならば、これこそ仏法なのではないか。
また、そういうところに自然に集まってくる、また集まらなくても揺り動かされた魂の方向へと歩んでいる人たちがいるとするならば、それはまさしく僧伽ではないのか。
仏の概念もこれまでとは異なるかもしれない。仏法も経典のような表現ではないかもしれない。僧伽もこれまでの形相ではないかもしれない。今の私たちには想像もつかない形で、私たちのまえに、既に顕れているのかもしれないのだ。
そして、全く姿の違った親鸞との再会も・・・・・
『21世紀の信仰』終了