資料編
1出典
【出1】『真宗聖典』p215
【出2】『真宗聖典』p7
【出3】『真宗聖典』p315
【出4】『真宗聖典』p219
【出5】『ジンメル・コレクション』(ちくま学芸文庫)p96
【出6】『真宗聖典』p150
【出7】『真宗聖典』p161
【出8】 同上
【出9】『真宗聖典』p190
【出10】 同上
【出11】『真宗聖典』p157
【出12】『真宗聖典』p280
【出13】『真宗聖典』p199
【出14】『真宗聖典』p198
【出15】『真宗聖典』p161
【出16】『真宗聖典』p214
【出17】『真宗聖典』p453
【出18】『真宗聖典』p221
【出19】『真宗聖典』p230
【出20】『真宗聖典』p240
【出21】『真宗聖典』 同上
【出22】『真宗聖典』p242
【出23】『真宗聖典』p150
【出24】『真宗聖典』p219
【出25】『真宗聖典』p280
【出26】 同上
【出27】『真宗聖典』p284
【出28】『真宗聖典』p305
【出29】『真宗聖典』p284
【出30】『真宗聖典』p240
【出31】『真宗聖典』p320
【出32】『真宗聖典』p323
【出33】『真宗聖典』p308
【出34】『真宗聖典』p326
【出35】『真宗聖典』p357
【出36】『真宗聖典』p305
【出37】『真宗聖典』p307
【出38】『真宗聖典』p86
【出39】『真宗聖典』p401
2補足
【補1】ジンメルの視点は『ジンメル・コレクション』(ちくま学芸文庫)に取り上げられているように、“売春”や“取っ手”・“額縁”というようなテーマは社会の主流的題材ではなくいわば社会のあるいは物事の隅にあるようなものを課題としている。その内容はここでは述べないが、親鸞の救済の対象も社会からはずされているような人々に着眼されている事と着眼点は類似しているように思える。しかしここでジンメルを引用してジンメルを論じていくことではなく、ジンメルに学んだことを思考の中に取り入れて述べさせている。
【補2】大乘佛教における中觀思想というのは
この世のすべての事象・概念は、「陰と陽」「冷と温」「遅と速」「短と長」「軽と重」「止と動」「無と有」「従と主」「因と果」「客体と主体」「機能・性質と実体・本体」のごとく、互いに対・差異となる事象・概念に依存し、相互に限定し合う格好で相対的・差異的に成り立っており、どちらか一方が欠けると、もう一方も成り立たなくなる。このように、あらゆる事象・概念は、それ自体として自立的・実体的・固定的に存在・成立しているわけではなく、全ては「無自性」(無我・空)であり、「仮名(けみょう)」「仮説・仮設(けせつ)」に過ぎない。こうした事象的・概念的な「相互依存性(相依性)・相互限定性・相対性」に焦点を当てた発想が、ナーガールジュナに始まる中観派が専ら主張するところの「縁起」である、とするものである。
【補3】『教行信証』において親鸞は“行の一念”と“信の一念”をあらわす。行の一念とは「称名の遍数において、選択易行の至極を顕開す」と述べられている。これは言ってみればたった一度きりの必然性を言っているのではないかと思われる。
また信の一念の方は「信楽開発の時剋の極促を顕し、広大難思の慶心を彰す」とある。これは信心の瞬間を示している。その瞬間の中に過去・現在・未来の広大な世界への慶びが潜んでいる事を言っていると思う。
【補4】M.チクセントミハイ著 今村浩明訳 『フロー体験 喜びの現象学』。苫米地英人(とまべち ひでと)著『「イヤな気持ち」を消す技術』(P18・P27)
【補5】カントは純粋理性批判の中で、次の四つのアンチノミーを例示した。
世界は時間的、空間的に有限である/世界は無限である
世界はすべて単純な要素から構成されている/世界に単純な構成要素はない
世界のなかには自由が働く余地がある/世界に自由はなくすべてが必然である
世界の原因の系列をたどると絶対的な必然者に至る/系列のすべては偶然の産物で、世界に絶対的必然者は存在しない
アンチノミー(二律背反)とは、ある命題(テーゼ、定立)と、その否定命題(アンチテーゼ、反定立)が、同時に成立してしまうような場合を言う。
【補6】シカゴ大学の実験データの出典
3参考
【参1】参考文献 入不二基義 著『時間は存在するか』
【参2】参考文献 ハイデッガー著『存在と時間』
【参3】参考文献 入不二基義 著『時間は存在するか』
【参4】参考文献 デカルト著『方法序説』
【参5】参考文献『意識科学 意識が現象を創る』意識科学研究会
【参6】参考文献 ジンメル著『ジンメル・コレクション』(ちくま学芸文庫)
【参7】参考文献 中野信子著『脳科学からみた祈り』
【雑感】
(1)
虚偽をも内在する真実 ─ 真実の虚偽 虚偽の真実 ─ 真実は虚偽をも超えるが虚偽は真実の中にしか存在し得ないのだ。なぜならば、虚偽が虚偽自身だけであれば虚偽になり得ないからだ。つまり虚偽は真実に照らされて初めて虚偽になるのである。真実は真実のままで真実を証明でき得ない。真実は虚偽を見破ってこそ真実たらしめられるのだ。
(2)
または地球という特異な星や宇宙創生の神というような単独無二の存在が成り立つのか。この二つの問いは、“集合体”ということを考えるにあたり、確かめておかなければならない問題である。
(3)
有限と無限について−無限の中に有限があるのではない。有限の中に無限は存在しうる。なぜなら、無限は無限なるが故に自在だからだ。たとえば、無限の中に有限が存在したなら、その無限は有限によって無限になり得なくなるからだ。有限は質量や長さ等の比較対照に使われるが、無限は比較対照には該当しない。無限の質量とか無限の長さにはなり得ない。無限の長さに有限の長さを加えても無限の長さに変わりはない。無限に有限は入り込めないのである。
(4)
第十九願私考 − この願は菩薩行を歩む者の願である。發菩提心は自利行、修諸功徳は利他行をしめすわけであるから菩薩とみるべきであろう。この者が死するとき大衆と囲繞して阿弥陀が現前する事を誓われているが、これは何を意味するのであろうか。
この時阿弥陀は大衆と全く別の形相として現れてくるのだろうか。大衆と同じ形相で現れてくるのだろうか。もし同じ形相ならば、見分けがつかない。「阿弥陀は如より来生して、報・応・化種々の身を示現したもう」といわれている事から言えば、むしろ大衆が阿弥陀なのだろうか。
教学的に言うならば、菩薩の死に対する、如来の授記と見て取れる。いわゆる「七地沈空の難」だ。もう一方から言えば、釈迦の入滅と同じ意味を持つ。尊き人の死においては、いろんな人々(大衆)が駆けつけて泣き悲しむ事を意味するのか。まさに釈迦の涅槃図に描かれているような姿だ。これは、かなり現実味を帯びた表現だ。そうなると菩薩行を歩む者も現実的に了解すべきだろう。この自利利他の行というのは現実的に言えばどういう事として表現できるか。自利とは常に自分の向上を求め続け、また利他とは他人のことは見捨てられないで人のために尽くす人とでも言おうか。
世の中には、まれにそういう人間がいる者だ。誰からも好かれ尊ばれ、常に自らを律している人間。そういう人の死に向かっては正に悲しみに沈むしかない。そういう処に混じって阿弥陀が示現するという。
こういう現実的な場面で語るとき、阿弥陀の出現は誰のためなのか。もちろん臨終者のためには違いないが、それならば、別に大衆と囲繞する必要はない。阿弥陀が大衆を引き連れてきたのか、それとも大衆が囲繞している中に弥陀が現れるのか。わたしは後者だと思っている。
親鸞は、この第十九願の成就文は『観経』の三輩九品の文とされている。この三輩九品は、言ってしまえば大衆の事である。菩薩の死に悲しみふける大衆の救いを誓われているのが、第十九願の意図であろう。十方の衆生の中にはさまざまな人がいるとも見えるが、その十方衆生で菩提心を起こし功徳を修することは、すでに菩薩道を歩む者であるから救済を必要とはしていないはずである。そして発願するということは、八地に至っている証でもある。その人を菩薩とは見えない大衆が集まって嘆いているその大衆を救うのが阿弥陀の目的ではないのか。ここに隠顕釈の意味がある。
(5)
第二十願私考− この願は前の菩薩を歩むものの願に対して凡夫救済の願である。凡夫救済というのは念仏者のことである。何者によっても救われがたい凡夫が念仏によってしか救われない誓いがこの二十願である。従ってこれを「果遂の願」と呼ばれる所以である。
第十八願を『大経』によって「真実・方便の願を超発す」といい、第十九願を『観経』によって「方便・真実の教を顕彰す」といい、この第二十願を『小経』によって「ただ真門を開く」と述べられている。ここに願・教・門という風に質の異なるものをもって述べられている事は何を意味するのか。
(6)
後序−これまで近代思想に当てはめながら論じてきたが、これはひとえに現代の人々に理解していただくようにという意図であった。しかし淨土眞宗は理解するべきものではない。この時空に産み落とされた一人一人の存在が明かされること、自らの存在が証明されていることに頷く、それが淨土眞宗なのだ。自分の存在に迷い、自分の存在を厭い、自分の存在に絶望していく人がいたなら、「そうではないのだ。すべて存在するものはそれぞれに意味があって存在して居るんだ」ということを呼びかけ続けているのだ。
(7)
ニーチェの後期思想の根幹をなす思想であり、『ツァラトゥストラはこう語った』においてはじめて提唱された。
「時間は無限であり、物質は有限である」という前提に立ち、無限の時間の中で有限の物質を組み合わせたものが世界であるならば、現在の世界が過去に存在し、あるいは将来も再度全く同じ組み合わせから構成される可能性について示唆している。ニーチェにおいて、この世界の円環的構造は、たんに存在論的なものにとどまらず、自由意志の問題と結びつけられる。
永劫回帰するのは、終末を迎えることなく時を越えて同一である物にして、且つ万物である。万物斉同。すなわち、永劫回帰は終末における救済というオプティミズムとの対比でしばしばペシミズムと結びつけて語られるが、その一方で、救済されるようにと今の行いを正す、という制約から解放された明るさもある。世界が何度めぐり来ても、いまここにある瞬間がかくあることを望む、という強い生の肯定の思想でもある。その意味で、永劫回帰は生をおろそかにしない超人にのみ引き受けることが可能な、存在と意志との自由の境地である。永劫回帰はたんなる宿命ではなく、自由意志によって招来される世界の根源的なありようなのである。
永劫回帰は生への強い肯定の思想であると同時に、「一回性の連続」という概念を念頭に置かねばならない。つまり、転生思想のように前世→現世→来世と‘生まれ変わる’ものでは決して無く、人生とはカセットテープのように仮に生まれ変わったとしても‘その年その時その瞬間まで、まったく同じで再び繰り返す’というものである。 仮に2006年、あなたはブルーの服を着て、白いズボンを履いて14:45に目黒駅前の明治学院行きバス停でタバコを一服していたとしよう。命尽きて生まれ変わっていたとしても、2006年、あなたはブルーの服を着て、白いズボンを履いて14:45に目黒駅前の明治学院行きバス停でタバコを一服している。リセットしてカセットテープを巻き戻しただけの状態になる。これが「一回性の連続」である。それを永遠に繰り返す。故に、己の人生に「否」(いな)と言わず、「然り」(しかり)と言う為、強い人生への肯定が必要なのである。ツァラトストラは自ら育てた闇に食われて死して逝く幻影を見る。最高へは常に最深から。超人は神々の黄昏に力強く現れる。闇を知り、闇を破し、死してなお生への強い「然り」を繰り返す。今、ここにある瞬間の己に強く頷く態度、それこそが超人への道であり、永劫回帰の根幹である。
(8)
自己とは空間のようなものだ。自己という限定された空間の中に、ぎっちりものが詰まっていれば窮屈に苛まれる。あまりにものが少なすぎると空虚におびえてしまう。自己という一室の空間に何があるかと言うことが一番重要なことではあるが、それが役に立つものだからといって、部屋中いっぱいにものがあったらどうなるか。それは言うまでもない事である。
人間の抑圧感と空虚感は空間と質量のバランスの関係によるものであることがいえるだろう。そういう中で人間は質量は変化しないけど自己という空間が変動する。その変動によって抑圧感になったり空虚感になったりするのだ。
だけどそんなものに怯えてはならない。自己をふくらませたり縮めたりすればいいだけの話だ。それよりも慎重に考えていかなければならない問題は、中身の問題だ。その質量がどんなに多かろうと少なかろうと問題ではない。そのものの種類が問題なのだ。本当に大事な自分にとって必要不可欠なものであれば、ほんのわずかであっても安心すればよい。不必要なものをいくら集めても何になろうか。ただ自己の空間をふさぐだけでしかないのは明白であろう。
我々は往々にしてそういう不必要なものを集めてそしてそれで苦しんでいるのではないのか。
(9)
方法的懐疑を経て、肉体を含む全ての外的事物が懐疑にかけられ、純化された精神だけが残り、デカルトは、「私がこのように“全ては偽である”と考えている間、その私自身はなにものかでなければならない」、これだけは真であるといえる絶対確実なことを発見する。これが「私は考える、ゆえに私はある」Je pense, donc je suis (フランス語)である。ちなみに、有名な「我思う、ゆえに我あり」コギト・エルゴ・スム cogito ergo sum(ラテン語)とのラテン語表現は『真理の探究』でなされているが、これは第三者による訳で、デカルト自身がこのような表現をしたのは、後に彼がラテン語で執筆した『哲学原理』においてである[1]。方法序説はラテン語訳が出版され、「Ego cogito, ergo sum, sive existo 」との表現がとらえている[2]。詳細は同名の内部リンクを参照。
コギト・エルゴ・スムは、方法的懐疑を経て「考える」たびに成立する。そして、「我思う、故に我あり」という命題が明晰かつ判明に知られるものである事から、その条件を真理を判定する一般規則として立てて、「自己の精神に明晰かつ判明に認知されるところのものは真である」と設定する(明晰判明の規則)
のちのスピノザは、コギト・エルゴ・スムは三段論法ではなく、コギトとスムは単一の命題を言っているのであり、「私は思いつつ、ある」と同義であるとした。そのスピノザの解釈から、カントはエルゴを不要とし(デカルト自身もエルゴの不要性については考えていた)、コギト・エルゴ・スムは経験的命題であり自意識によるものだとした。
量子論でいえば、陽子と陰子によって構成されているが、そこに中性子等の素粒子が発見されているそれらは“類似する物”としてみることができる第三局の存在である。それをどちらにも類似しない物としてみるのか、どちらかに類似する物としてみるのかといえば、どちらの表現でもかまわないが、対局するのは二局しかないということが原則であり、第三の存在は両方との関係において存在しうるものであり、変動しながらどちらかに接近したり離れたりすものとして現象していると考えられる。
(中性子が陽子になったり陽子が中性子になったりする現象もあるらしいが、今量子論を述べるような力量は全くないのでそれを論じるつもりではなく、それを借りて時代というものを表現しようとしているわけである。)