第一章 “われ”の所在
第一節 『大無量壽経』における時間論
親鸞が、『大無量壽経』(以下『大経』という)を真実を顕す教えとして『教行信証』に引文されているその『大経』の文は、周知のように「発起序」の部分であるが、その部分に「去来現佛 佛佛相念」【出2】という文言がある。過去の仏・未来の仏・現在の仏、仏と仏とが互いに念じあう、という話のところである。時間が過去・現在・未来に流れているという考え方の上では、こういう事は成り立たない。過去の仏は現在・未来の仏を知り得ないし、現在の仏は未来の仏を知り得ないからである。ここで「互いに念じあう」ということが成り立つためには、過去仏と未来仏と現在仏とが同時に存在する必要がある。そのことは、時間の概念が過去・現在・未来と流れる直線的次元ではなく、この「序章」に述べた様に記憶という過去から未来が想像され現在へと立ち返る互いに連鎖された時間を想定していると言わざるを得ない。つまりそういう連鎖的時間においてこそ、それらの仏と仏とが現在という一時において互いに念じあうことが可能となるのである。
この経典が書かれた時点での現在とは、言うまでもなく釈迦仏となる。文面では、阿難が釈迦に対して「今佛」と言っているところからも察し得る。それに続いて阿難は「念諸佛耶」と問うた事から、過去仏の阿弥陀仏の物語が語られていくというこの『大経』のストーリーである。
釈迦が語る阿弥陀仏の物語は、阿弥陀仏がまだ仏になっていない修行者だった頃の話で始まる。その頃の名を法蔵比丘という。法蔵比丘は世自在王仏に出会い、自分も国土を摂取して無量の仏国土を荘厳して行くつもりだ、と。そして仏となってすべての人々の苦悩の根源を抜いていくつもりであるから、そのための教えを説いてください、と懇願する。
それに対して、世自在王仏は、「汝所修行 荘厳佛土 汝自当知」と突き返すのであるが、なおも法蔵比丘は「非我境界」と再度懇願する場面がある。以下話の展開は省くが、この〝我が境界にあらず〟というのはどういう意味を持つものであろうか。〝境界〟という言語そのものは空間的であり一般的には〝空間的な広がりにおいての〟境を意味するところである。しかしながら、世自在王仏の説かれた仏土は二百一十億という限定された数字を出して述べられる。この数だけで「我が境界にあらず」というにはあまりに興ざめをするではないか。そうなれば、この限定された二百一十億という数の量よりもその質に問題があると見るべきではなかろうか。すなわち、この二百一十億という数は空間的な数というよりも過去・現在・未来を貫いたところの二百一十億の数ではないかという想定を立てることができるであろう。貫くと言うことは時間が過去・現在・未来という一直線的時間論では成り立たない。すなわちその時間論は先に述べたように過去・未来・現在という現象的時間論でなければならない。
因みにこの二百一十億の〝二十一〟という数字は3×7であるが、これにあえて意味付けをするならば、三世の世界と六道と悟りを加えての七世界を表しているとも考えられる。つまり過去・現在・未来という時間的な三世それぞれに悟りと六道の迷いの空間的な全世界を示された、という意味で了解するならばすべての時空を示したことになる。(仏教では往々にして数字に合わせた意味づけをする傾向にある。それはその数の多さを示すよりもその数を持ってその数が示す内容を簡略的に示すというテクニックでもあろう。)
そうであれば、法蔵比丘と世自在王仏が存在する〝時〟において、阿難と釈迦牟尼仏とが存在する未来の国土を覩見することは、まさに自らの境界を超える事柄だったと言うことであろう。それが出来得るのは、世自在王仏のみだろう。この世自在の王という仏名にもその意味が託されていたに違いない。
このことをもってはじめて、仏仏相念が実現されてくるのである。仏仏相念が実現されてくると言うことは、念じるところにおいて過去・未来・現実が〝一時〟になる。〝一時〟とは過去・未来・現在が一つの時になった現在ということである。念じる一念の所に過去と未来が実現するということである。だから一念というのは、記憶と想像が一つになった〝一時〟をいうのである。このことについては「一念」と言うところにおいて再度触れることになろう。【補3】
したがって、法蔵比丘の言うところの「境界」とは空間的であり時間的でもある。そのことは、現代の我々においても同様に言える。つまり、法蔵菩薩が覩見した未来の国土はまた我々の世界でもあるはずである。従って我々にとっても一念において去来現が実現してこなければならない。換言すれば二十一世紀においても去来現の佛を念じる一時が実現してくるということは、人類を諸仏と見える世界が実現してくると言うことにほかならないのである。しかも「仏と見える」ということは単なる視覚的認識ではなく、その人と出会うという体験的な認識として了解しなければなるまい。なぜならば相念の〝念〟それ自体がきわめて主観的であるからである。出会いとは単に時空間を同じくすることではない。人格同士の共鳴なのだ。だからどこに存在していても問題ではない。たとえまだ生まれていない人物であってもその人の理想像として出会うこともあり得るのである。その出会いはどこで出会うのかと言えば、〝今〟というこの瞬間(一時)しかないのであるが、それはあくまで認識の時であって、その瞬間を生み出す過程は過去から未来を通過している。すなわち過去に培った経験によって自らの理想像を想像し現在に出会う。その過去や未来の事柄が意識になかったとしても、現在において響きあうのはその過去と未来を背景にしているからに他ならないのである。
それでは、私の所在はどこであっても問題にはならないことを思い浮かべるであろう。どこにいても出会いができるならば、なぜ所在を問題にしているのか。それは自らの所在を明らかにすることにおいて、時間的空間的境界を広げるという意味を示すものだからである。すなわち、時間空間の認識は、自らの起点がなければ広がっていかないからである。法蔵比丘も「我が境界にあらず」と言われた言葉は、まさに自らの境界を明らかにしていたことを物語っている訳である。自らの起点を意識しない間は、時空間の広がりをも認識していないのである。そこには全く広がりのない固定された時空間の中だけの存在しか意識されないのが明白である。そして自己の所在あるいは境界を認識することによって、外へと広がりを求められてくるのである。
特に時間についてはいい例だ。我々は常に現在に所在しているが、それがあまりに必然的であるがために意識されないままに生きているとき、過去や未来などはあまり眼中にはない。過去は過去として未来はせいぜい自分が生きているだろう近未来ぐらいしか意識はされてこない。それは自分の立っている存在場が意識されないからだ。
先に時間の流れについて、過去から未来に流れて現在に至る、ということを述べたが、過去から未来に流れる時間は理想だけではなく、希望や願いもその意味をなす。つまり真宗で言うところの本願もまた過去から未来に流れる時間の中に誕生する。そしてその本願のはたらきは未来に働くのではなく現在に働くのだ。当然それは、現在に働かなければ〝願〟の願いという意味はなくなるからである。
まさに阿弥陀の本願こそ、永劫の未来を見据えて現実に働きかけるエネルギーにほかならない。