第二章 黎明の教学 −『教行信証』−
第五節 現象世界−自己空間−(真仏土)
第一項 重層構造 −表層と深層−
さて、先に重層空間を述べてきたが、なぜ重層でなければならないのかを明らかにしておかなければならない。というのは、我々は、存在する現実世界に生きそして死んでいくのであるが、その生死にどうしても意味づけしたいという人間のある種本能的な探求心があるからである。存在の意味づけは、本来無理であり無意味である。なぜなら存在は存在すべき原因があって存在し、消滅すべき原因があって消滅していくのであって、その原因に意味を見出すこととは本来位相が異なっているからである。言い換えるならば、存在においてはあくまで自然科学的であり、その意味を問うことは認識論的であるからである。したがってそれを表すためにはもう一つの空間によって存在を融合させる以外にはありえないことなのである。その空間は常に存在を意味づけるためのものであるから、姿を顕さない深層的空間なのである。
そして、〝存在している〟というこの表層空間において、われわれの信仰が如來の本願と反応を起こすとき、深層空間の浄土が認識されてくるのである。
第二項 大乗の至極
そもそも浄土真宗は、浄土往生の教えでありながら、『教巻』から『証巻』までを通して浄土往生する論理展開はほとんど見られない。それよりも「涅槃」あるいは「滅度」に至る道の方に近いし、あるいは「信心獲得」の道を求めることが中心的だったり、乱暴に言ってしまえば、それらのことは『証巻』で完結しているとさえ思えるのである。しかしなぜ浄土が必要なのか。浄土真宗において「浄土」はどういう位置を占めているのか。そういうことが全くといっていい程述べられてはいない。
この浄土真宗が成立していく以前、極楽往生、死後往生の思想が蔓延していた。浄土真宗はその名残でもあったのだろうか。それともここで浄土思想の完結に到ったのか。ともあれ、その浄土観が変わっていっている事は確かなことである。
まず、大まかな視点で親鸞のいう浄土とそれ以外の、あるいはそれ以前の浄土観の相違を考えてみるに、親鸞以外の浄土観は、浄土に生まれる我々側に立った浄土観だった。だから浄土それ自身を問うことよりも、その浄土にどのようにして往生するのか、という方法論が中心となる論議がほとんどだった。
しかし、親鸞の眼は違っていた。親鸞の眼は、浄土を建立しようとする如来の本意を模索していたのである。それは直接如来の本意を知る事はできるはずもなく、その手段は建立された浄土を理解していくことによって、如来の本意にたどり着こうとする思索であった。この相違は、教団史実上に争論として残されている文書からも窺い知る事ができるであろう。
さて、それでは親鸞のその視点を少し尋ねてみよう。まずこの『真仏土巻』の文頭において「真仏土」というのは「真の報仏土」であると述べられる。この〝報〟がこれからの展開の中に大きな意味を持ってくる。まず第一に阿弥陀の大悲の本願に酬報して出来た浄土であること。言うなれば本願の結果として浄土が出来たという事を表す、浄土の始まりである。これまでの浄土は、阿弥陀の浄土にしても他の仏の浄土にしても既に出来上がっていた浄土であり、その建立の因は問われず、既に完成されたものとして曼陀羅に配置されている事は周知の通りである。
第二に、『同巻』「玄義分」の引用文の中に
問うて曰く「かの仏および土、既に報と言わば、報法高妙にして小聖階いがたし。垢障の凡夫いかんが入ることを得んや。」答えて曰く「もし衆生の垢障を論ぜば、実に欣趣しがたし。正しく仏願に託するによって、もって強縁と作りて、五乗斉しく入らしむることを致す」と。【出31】
と述べられているように、「五乗斉しく入らしむる」ということが〝報〟のもう一つの意味である。これはすなわち、全ての人々を入らしめるということだ。要するに、阿弥陀仏は救いがたい者をも全て斉しく救う、という意志を物語るものである。
これは仏教の教義の中で、全てを救うという概念は世界観を課題とする以外に考えられない。個々においての救済は、全ての衆生を救い終わるには無限の時間が必要でありそれは不可能であろう。つまり、一切衆生を救済するためにはその救済する空間的器が必要である、ということである。
浄土真宗の世界観は〝われ″を離れて存在しない。それは、いわば〝われ″の救済において一切衆生の救済を立証しなければならないからである。そのことをもって『教行信証』に「真仏土」と「化身土」が添えられているのであろうと考える事ができる。
しかして「浄土」についてなぜ「真仏土」と「化身土」の二つが説かれている理由は何か。それは、「浄土」というのは如来の願海に酬報された果成の「土」であるからである。「酬報する」とはどちらも「むくいる」という意味であるから、端的に言えば「浄土というのは弥陀の本願に報われた結果表れた」ものである。それでは何が本願に報われているのか。それは“わが身”の在り方に他ならない。〝わが身〟の相が本願に〝反応〟したのだ。〝反応〟の作用として浄土が顕れるのだ。したがって親鸞は『真仏土卷』にて「しかるに願海について、真あり仮あり。ここをもってまた仏土について、真あり仮あり」【出32】と説く。なぜ本願海に真・仮があるのか。本来「本願一乗海」で尽きるのではないか。それを考えるならば、われわれ衆生の在り方に〝反応〟せざるを得ないために真仮を表していると考えるのが妥当であろう。
第三項 身土不二
真の報佛土というのは、佛と土が不二である世界観をいう。そしてこの世界観が願われてくるのは光明・寿命の二願によってである。この二願は普遍性と永遠性を示すと言われる。すなわち光明無量は普遍性を、寿命無量によって永遠性を表現しているということはごく自然に了解するところである。これを言い換えるならば、空間的と時間的無限性を表現していると言ってよい。ただおもしろいのは、光明無量の願も寿命無量の願も佛自身の願であるはずなのに佛土の願として用いられているところだ。佛身がそのまま佛土になる、ここに佛土不二であることを示す大事な視点があるのだろう。〝不二〟ということは「異にして分かつべからず、一にして同ずべからず」ということだ。すなわち、異なっているが分けるわけにはいかない、だから一つということになるが、同じものではない、ということになろうか。そのような感覚を持って少し考察してみたい。
そもそも、菩薩道というのは、自利利他円満の行に尽きる。その自利利他が同時に成り立つということは、至極困難であり不可能に近い。ベクトル的に言えば、上求菩提、下化衆生というような真逆な方向において同時実現は不可能と言わざるを得ないのだ。それを同時に成り立たせることがあるとすれば、自利と利他が同じ内容にならなければならない。それはどこで成り立つのか。それは、場において成り立つということにある。そのことは『論註(下巻)』を引用して
自利利他を示現すというは、略してかの阿弥陀仏の国土の十七種の荘厳功徳成就を説きつ、如来の自身利益大功徳力成就と、利益他功徳成就とを示現したまえるがゆえに【出33】
と示されている所からも伺えることである。したがって自利利他円満からみれば、二つは違えども分けることは出来ないのである。
ここでもう一つ次の疑問が残る。自利利他円満については了解するが、仏と土に対する認識的実感が異なり、二つの共通認識が浮かんでこないのである。これをどう思考していくべきか。
前項に述べたが、〝報〟について言えば、「西方の安楽・阿弥陀仏はこれ報仏報土なり」といられるところからすると〝報〟において共通概念を持つことが出来る。しかし土は〝報土〟であるが、後に出てくるように報土・化土があらわれ、仏は〝報仏〟であるが、法身・報身・応身がたてられてくる。よって、双方〝報〟でありながら同じではないのである。したがってこの〝報〟において仏と土が不二であらねばならないことになってくる。もし不二でなければ、どこで共通認識が成立することができるであろうか。ここにおいて身土不二の問題は了解できたであろう。
したがって、光明無量の願と寿命無量の願という仏自身の本願によって浄土が建立される意味が明確になった。そのうえで、次になぜ〝光明〟と〝寿命〟なのかということを確認しておかなければならない。
『四依品』を引いて「光明は不羸劣に名づく」と述べられている。羸劣とは疲れ衰えることだ。〝疲れ衰える〟という概念は人間に属する相であるから、光明を擬人化しているとみなすことができる。光を擬人化する意味は仏を表している事を意味する。続いて「不羸劣とは、名づけて如来と曰う」と述べられる。したがって光明すなわち如来となる。そして「また光明は名づけて智慧とす」と述べられてくる。そうすると、如来は光明という智慧の働きの場として浄土を見いだされてくるということなのであろう。それでは〝寿命〟の方はどうであろうか。これについては〝仏性〟をもって述べられてくる。いわゆる「一切衆生悉有仏性」に関して
衆生の仏性は現在に無なりといえども、無と言うべからず。虚空のごとし。性は無なりといえども、現在に無と言うことを得ず。一切衆生また無常なりといえども、しかもこれ仏性は常住にして変なし。【出33】
と述べられている。これは、言うなれば「衆生の仏性は今は無であっても、いつかは現れる事もある。だから無とは言わないのだ。」ということだろう。これをまた「仏性未来」とも述べられている。ここで〝衆生〟というが、その具体的標的はといえば「あるいは説きて、犯四重禁、作五逆罪、一闡提等みな仏性ありと言うことあり」と断言されているところからも窺える。この事からみて、これらを見捨てることは出来ず、ここに「寿命無量」が誓われてくるのは、むしろ必然であった。
また次に、「仏土について、真あり、仮あり」とのべられる。この〝仮〟について言えば、仏と土が別々なのを「方便化身・化土」と名づくと言われる。身と土とが別々に述べられているところにその意味を伺うことができよう。言うなれば、我々が認識する浄土というのは、方便化身土であり、ある二つのあり方が重層している事を実感するその場をいうのではあるまいか。なぜなら、真実報土とは我々の認識を越えたものだからである。
従って、今言うところの「真仏土」の重層空間とは、我々にとっては思いや思慮を超えている。それを親鸞は不思議とあらわした。よって「難思議往生」と言われるのである。